新しく生まれる 

611日(日)礼拝証言 

ヨハネによる福音書 3110

飯沢 忠牧師 (日本基督教団)

主イエスは「誰でも渇く者は私のところへ来て飲むがよい。私に来る者は決して拒みはしない」と仰せになりました。

今朝の聖書に「ニコデモは夜イエスのもとに来て」とあります。ヨハネによる福音書で「夜」について語られるとき、それは深い意味をもっているのであります。

ヨハネ11:10を見ると「しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」とあります。ここでは夜は人間の心の状態を暗示しています。心に光を失った人が歩けばつまづく、心に光を失っている夜の状態に人はためらいと動揺と危険をともなっています。

それはまだ信仰にいたっていない姿でもあります。ニコデモが「夜」行動したことは、そこに彼の苦悩と勇気を見ます。彼はユダヤ教徒として神の戒めを守ることにおいて忠実でした。また彼はユダヤの国会に相当する70人議会の議員として社会的にも指導的役割を担っていました。経済的にも何不自由のない生活をしていました。しかしニコデモの心には「これでいいのか」という満たされないものがあった。そういう意味において彼、ニコデモは「心の夜の状態」があった人であります。

 当時、人々からナザレの大工と呼ばれている主イエスのもとに国会議員に相当する地位のある人物が「夜」イエスのもとに来たということの中に、ニコデモのなみなみならぬ決意と勇気が見られます。

 ニコデモは言った「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(ヨハネ3:2)「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3) 主イエスはニコデモが叱っている問題の解決をなされる前に、これらの問題の大前提として「新しく生まれる」ことをしなければならないと、教えられました。ここで主イエスは「新しく」(アーノーセン)ということばを使っています。このことばは「上より生まれる」「神による新しい誕生」を意味しております。ニコデモが言っているような母の胎内に入ってもう一度、生まれ直すようなこではなく、上から・・・神によって新しく生まれかわる。すなわち「洗礼」のことを言われたのであります。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5

「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」ということはどういうことを意味しているのでしょうか。

「神の国を見る」ということは「主の祈り」で主が教えられた「神のみ旨が天に行われているように私たちの住んでいる地にも徹底して行われるような社会になることであります。

私たちがそのような人生に生きること。そのためには先ず私たちのいのちの創造者、造り主である主なる神を、受け入れることから始めなければならないと、主イエスは仰せになられたのであります。

次にこのように神によって新しく生きる者には神の子としての特権を与える。ヨハネによる福音書14:21に「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」と主イエスは仰せになっておられます。「愛に生きる」ということは、愛する相手のために自分が死に、相手の中に自分が生きるということであります。洗礼がそのことを表しています。

私たちは生きることの深みにどこまでおりてゆくことができるでしょうか。
ヨハネによる福音書の15:13に「友ために自分の命を捨てること。これ以上に大きな愛はない。」とあります。

新約聖書における「新しく生まれる」という新生の思想は神の再創造の思想、自分のみを愛して人を真に愛することのできないでいる私たちの生活、こうした生き方は神のみ旨に背いた罪(ハマルテヤ)、的外れの人生である。ガラテヤの信徒への手紙5:19~25では「肉の業は明らかです。それは姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前、言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」とあります。

 的を外した生活を神のみ前に悔い改めて180度の方向転換をして生きることです。
私は、よく求道者の方々に下り列車から上り列車に乗り換えるという話をいたします。下り列車には知識、学識豊かな人々や、神さまとは縁遠い生活をしている人たちなどを乗せて、神さまに背を向けて逆の方向へ走っています。一方、上り列車には貧しい、或は罪深い生き方でなんとか神さまに救いの手を差し伸べて欲しいと願う人たちを乗せた列車が走ります。下り列車に乗っている人たちは、神さまに背を向けたままですから、どこかで上り列車に乗り換えなければなりません。そのためには、まず主なる神を受け入れる。愛に生きる。そういう決意をもって神さまへ向かう列車に乗り換えることが大事です。もっとも上り列車に乗ったからといって、御心に適った信仰生活がおくれるとはかぎりません。ただ、ひたすら主なる神を受け入れることです。

ローマの信徒への手紙6:1〜3では「では、どういうことになるのか。恵が増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるのでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」
私たちが新しく生まれるということは古い悪いくせを直すといったことではなく、キリストの十字架の恵みによって全く新しく根本的な変革がなされることであります。このことは人間の力によるのではなく、ただ神の恵みと神の力によるのであります。全ての人間がキリストによって新しく生まれ変わる時、世界は大きく変貌するのであります。人間が神の愛に生かされる時、人間が貧しさや飢えから解放され平和が造りだされるのです。

現代はまさに闇の世です。人々の心は夜の状態であります。キリストは暗き世に光としてこられました。ニコデモがキリストに出会って新しく生まれ変わったように全ての人が闇の子から光の子に変えられることを祈り願うのであります。

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