力ある神のみ業

ルカによる福音書1:5780

07.12.9

飯沢 忠牧師(田園調布教会協力牧師) 

 主イエス・キリストがお生まれになる前に祭司ザカリヤは、年老いた妻エリザベツに子どもが与えられたというみ告げを受けたとき「どうしてそんなことが」という不信仰によって口がきけなかったとルカは1章5節以下に記しています。

 人間は創造者なる神の全能の方を信じないで不信仰におちいるとき、言葉を失ってしまうのです。

現代の騒がしい生活の中にあって、私たちもザカリヤのように沈黙しなければ神のみ言葉を聞くことはできません。ザカリヤは口がきけなくなってから、10ヶ月後に口がきけるようになりました。それはザカリヤが神様の大きな働きの前に、10ヶ月間の沈黙によって神を信頼できない罪を悔い改め、神を信じるようになったとき、口がきけるようになったのです。そのときザカリヤが口にした言葉は、神をほめたたえる「讃美」でありました。「べネディクスト」「ザカリヤの讃歌」であります。

 この歌は二つの部分からできています。第一部は(1:68-79節) そこには神様が地球に住む私たちのところを訪れてくださった神の計画が実現したことの讃美であります。

 第二部は(76-79節)暗黒と死の陰のもとに住む私たちを照らすメシヤの光を示すバプテスマのヨハネの業について歌っています。

第一部の68-69節「ほめたたえよ、イエスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」 ここで歌われている「救いの角」は原語では、「贖う」という言葉を使っています。角は野牛の力強い角、神様は野牛のように暗黒の世界に力強く介入したのであります。それは私たち人間を苦しめる罪と死と悪の奴隷となっているところから、私たちを贖うためでした。そして私たちを神の子とするためであります。

この神様の救いは、昔イスラエルの民がエジプトにあって奴隷として苦しめられていたとき、そこから救い出されたことが、その始めであります。71節に「我らの敵」から救い出すとありますが、この敵とは悪のとりこになって、罪と死という敵から救い出すということです。この救いによって私たちに「真の自由」が与えられるのであります。自分では、どうすることもできない悪魔的なものから解放されるほんとうの自由は、私たち人間の造り主である神のご意志に従い、神に仕えることによって与えられるものであります。

ザカリヤは10ヶ月の沈黙の中で、神様の介入を知らされました。この歌は神の霊の働きを知った者の歌であります。

 イエス・キリストの誕生を祝う前に、神様はザカリヤの出来事をとおしてこのことを示されました。クリスマス前のみ言葉として、私たちも心に留めなければなりません。

後半の歌はバプテスマのヨハネの使命が中心になっています。ヨハネは神様の訪れを民に告げる預言者であります。彼は神の憐れみ深いみこころを告げます。それは私たち人間を苦しめている罪の赦しを告げる役目をもった預言者であります。

 77節「主の民に罪の赦しによる救いを知らされるからである。」 罪の赦しとは、神の刑罰からの解放というよりは神様と私たちとの関係の回復であります。

 私たちは神様に造られたとき「神の心」である善悪を断罪する「良心」を与えられているのにもかかわらず、神に背いたために神と敵対関係になっている、その結果79節「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」 「暗闇と死の陰に座している者たち」とは、罪人が鎖につながれ、牢獄にいる囚人をたとえているのです。その暗い牢獄にも夜明けが来る。あるいは旅人は夜になると暗いので歩けなくなる。じっと座っている。そこに日の出が起る。

 イエス・キリストの救いの太陽が力強く昇ってくる。78-79節「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」神から遠く離れて罪を犯していた者にとっては神は恐ろしい存在であった。

 主イエスの語られた放蕩息子のたとえ話の中で、父は遠くにいる息子を認めて走り寄って息子を抱いたとあります。そのとき、息子は父に自分の犯した罪をあやまりました。

 クリスマスを前にして私たちもこのようにしなければならないのではないでしょうか。

72-75節「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」 これは昔、神様がイスラエルの民の先祖アブラハムになされた約束の成就であります。ここでルカは旧約の時代と新約の時代が連続していることを語っています。

 68,78節「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、」「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、」 この言葉は私たちがもはや神様を恐れることなく私たちの救い主を讃美、礼拝することを意味しています。沈黙を破ったザカリヤが開口一番に口にしたのは「ほむべきかな」と主を讃美したことであります。

私たちの現実は暗いです。その最後は死であり滅びです。私たちは暗闇の中に座っている者です。そのような私に「日の光が上から私たちに臨んだ」争いのたえないこの地球上に救い主イエス・キリストが平和をもたらしてくださった!赦しの道を開いてくださった!

バプテスマのヨハネは主の道を備える人として生まれたのです。彼は父の祭司職を継がず荒野にいたのです。荒野はイスラエルの民がエジプトの奴隷から解放されて40年間過ごした神様からの厳しい訓練を受けたところです。ヨハネにとって荒野は新しい出エジプトの備えにふさわしいところでした。

80節「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人人の前に現れるまで荒れ野にいた。」私たちもこの世という荒れ野の旅の中でヨハネのように信仰を鍛えられ信仰の成長をし、霊も強くなる神の子でありたいと願う者であります。そういう中でクリスマスを迎えたいと思います。

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