神と争う者 07.4.15

創世記322232節(ヤコブ物語3

飯沢 忠牧師

旧約聖書において神がご自身を語られるのに「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と仰せになられます。そのヤコブの神であるヤコブの物語を学んできて今回で3回目になります。

今朝、学ぶところはヤコブが20年ぶりに故郷に帰るために夜、起きて妻や子どもたち、僕、それに580頭に及ぶ家畜を連れ、ヤボクの渡しという川を渡るところであります。そしてヤコブは、一人あとに残り、神に祈るのであります。その時、ヤコブは一晩中、神と相撲を取る、神と格闘するという不思議な経験をします。この出来事は一体、何を意味しているのでしょうか。

ヤコブが祈りの中で経験したことは何だったのでしょうか。ヤコブは神との格闘の中で、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と叫んでいます。

ヤコブは20年前に兄から長男の特権を策略によって奪い取った者であります。そして故郷から杖一本をもって逃亡者として旅に出たのであります。そして今ここにヤコブは妻と11人の子どもと多くの家畜、僕を与えられました。そのような沢山の恵みを神さまからいただいたのに、何故「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と祈っているのでしょうか。

今、兄エサウが400人を引き連れてこちらに向かっている。ヤコブは兄より長男の特権をだまし取ったので、兄の怒りによって財産を奪われ、妻や子どもたちも奪われ、そして自分も殺されようとしていると思って、神と格闘して祈っているのであります。

ヤコブが格闘している相手は神であります。ヤコブはここでこの世的な血肉の問題をかかえて祈っている。ヤコブが祈りの中で神と争っている問題は兄のこと、妻子のこと、財産のことだけではない。ヤコブはほんとうに恐れなければならない方を相手にして戦っているのであります。

ヤコブは神さまの祝福を受けるために20年間働いて与えられた多くの羊や牛、そして妻やこどもたち、これらを神さま以上に愛してはならない。

主イエスが仰せになられた「わたし以上にこれらのものを愛する者は、わたしにふさわしくない」であります。ヤコブはこの問題と闘っているのであります。

神さまはヤコブの祖先、アブラハムと父イサクに祝福を与えた神であります。そして神さまはヤコブにも祝福を約束されました。神はヤコブを用いてその子孫、後の世の地上のすべての国民に祝福を与えるめに、ヤコブを神の祝福の伝達者としょうとしているのであります。ヤコブは世界の民の祝福を担う者とされている。彼はそのために自己愛の故に尊い使命を失ってはならない。故郷を前にして神と格闘しているヤコブの中心問題はこれであります。

このことをもう少しくわしくみ言に学びたいとおもいます。「皆を導いて川を渡らせ、持ち物を渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」(2425節)「どうか、あなたのお名前を教えてください」ヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をぺヌエル(神の顔)と名付けた。(3031節) 神さまは天から降りてこなくても、全能の力をもってヤコブと闘うことのできる方であります。ヤコブの造り主である神はヤコブと相撲を取らなくても彼に勝つことのできる神であります。夜を徹して夜明けまでヤコブと闘う必要はないのです。現に神はヤコブの腿に触っただけで彼の関節は、はずれています。しかしヤコブは大腿骨をはずされても神を離そうとはしなかった。ヤコブにこんなにまでして神と争う資格がどこにあるのでしょうか。兄の特権を策略によって奪い取ったヤコブにその資格はないはずです。

この疑問を解くみ言がホセア書1236節に記されています。「主はユダを告発される。ヤコブはその歩みにしたがって罰し その悪い行いに報いられる。ヤコブは母の胎にいたときから 兄のかかとをつかみ 力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち 泣いて恵みを乞うた。神はぺテルで彼を見出し そこで彼と語られた。主こそ万軍の神 その御名は主と唱えられる。」

ここに「泣いて恵みを乞うた」とあります。ヤコブは今まで自分の悪知恵によって世渡りをしてきた。しかし、今はそういうことが不可能になった。
ヤコブは今までの間違った自己中心の生き方に泣いて神の前に悔い改めた。そして神の恵みを乞うた。ホセアはヤコブについてこのように語っています。これはヤコブの回心です。

私たちが信仰の告白をして洗礼を受けるとは、こういうことであります。ヤコブは故郷を前にしてこのことをしたのです。私たちの天の故郷、神のみ国を前にしてなすべきことはこのことであります。

主イエスがこの世に来られて一番最初に語られたみ言は「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」であります。

回心したヤコブに神はこう仰せになります。3228節「お前の名はなんというのか」。とその人が尋ね、「ヤコブです」、その名の意味は「押しのける者」です。狡猾な男、まさに彼は無きに等しい罪深い者です。彼は人を押しのける者、何の取り柄もない者である。こんなヤコブから神さまの祝福を取り上げても、何の不足もない。正義の神にはその権利がある。しかしそんなヤコブにも一つの武器があった。それはかつて天からの梯子の夢の中で聞いた神のみ言であります。

281315節『見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖、アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。

地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしはあなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。』 ヤコブはこの神さまの約束のみ言を固く握りしめて神さまと闘ったのであります。神さまはみ言のほかに何も持たない男に負かされたのです。

 3229節『その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」』 ヤコブはここで神さまの約束のみ言に生きる者に召されました。そして、やがてイスラエルの民の中に本当の意味で神と闘う方が来たり給うたのであります。十字架上において全ての人間を罪より救うため肉を裂き血を流されて神と格闘された主イエス・キリストであります。

 神のみ子は十字架の死によって人々に負けました。しかし神はみ子を復活させ、私たち全ての者に罪と死より救ってくださったのであります。

 イエス・キリストを信じる私たちにキリストの救いを宣べ伝える全権をヤコブのように託されたのです。

32節「ヤコブがぺヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。」 ヤコブは朝日の中を足を引きずりながら、神さまから託された使命に向かって歩き始めるのです。

 イエス・キリストの復活の光は神のみ国に向かって歩む者に、今朝も豊かに注がれています。

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