和解

  07.5.13 母の日

創世記33:1-20 ヤコブ物語(4)・エサウとの再会

飯沢 忠牧師

今日は母の日です。世界中の人たちがお母さんに感謝していることとおもいます。母の日は今から100年前のことですがアメリカのある教会学校で、そこに通う少女が教会学校の先生であった母親が 亡くなったときに、母親が日ごろ生徒たちに「父母を敬いなさい。お母さんに感謝のしるしを何か形であらわしてみてはどうか」と、話していたことを思い出して、自分の愛するお母さんが亡くなったときに、それまで蓄えていた全てのおこずかいでカーネーション買って、母親に捧げました。このことを知り感動した百貨店の経営者が、母をおぼえる日の大切さを認識し、自分のお店をカーネーションで飾り、母への感謝の気持ちを表し、多くの人たちに知られるようになりました。この少女の小さな行為が池に投げ込まれた小石が次から次へと波紋を呼ぶように、今日、全世界で母の日として祝うようになりました。どんなに偉い人でも母の愛なくして育つことは出来ないわけであります。私たちは母への感謝の気持ちを持ち続けたいとおもいます。

 神さまはご自分を私たちに示すのに「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と語られました。今まで3回にわたってヤコブの生涯で示されたヤコブの神について学んできました。今回は最後の箇所であります。

 ヤコブは兄より長男の特権を騙し取ったために、兄は怒り彼を殺そうとしました。そのためにヤコブは20年間、母の故郷で苦労の多い生活を強いられました。  そして、今ここにヤコブは20年ぶりに故郷に帰ってくるのです。しかし、彼は故郷が近くなるにつれて兄を恐れ、不安におののくのです。ヤコブは一晩中、神に祈り、祈りの中で神と格闘し、その中で、自分の犯した罪を示され、神の前に悔い改めて回心するのです。そして神より祝福を受けるのです。「ヤコブが目をあげると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。」(33:1a

 ヤコブは兄が400人を率いて砂煙をあげてこちらのほうに向かってくるのを見たとき、昨夜、祈りの中で神の祝福を受けたのにもかかわらず、動揺します。

私たちはここにヤコブの信仰が最後まで動揺していたことを見ます。私たちの信仰も同じではないでしょうか。

 「ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、側女とその子供たちを前にレア とその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。」( 33:1b〜2)ヤコブは兄が来るのを見たとき、彼の一族を二つに分け、いざという時のために、このような態勢をとったのであります。この隊列の中にもヤコブの自己保身的な姿を見ます。そしてヤコブは、いよいよ兄と再会することになります。彼は覚悟を決めて進み出ます。この時のヤコブは「その身を神にまかせて」という心境であったでしょう。

 「ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。」(33:3

これはヤコブの兄に対する恐れをあらわにしています。「七度、地にひれ伏して兄に近づいて行った」ここにヤコブの万全の構えが見られます。ところが事態はヤコブが考えていたこととは、全く違っていました。「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」(33:4)勝手な兄は、父が死んだ後、ヤコブを殺そうとしていました。ヤコブはその兄を恐れて不安におののいていました。それなのに10節の後半を見ますと「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」と語っています。

 これは人間の力によるものではありません。神の力による業であります。神の恵みによる業であります。神が恵みをもって昨夜、ヤコブとの格闘を通して神とヤコブと和解させてくださったことによるのです。ヤコブはあの格闘の後、32:31に「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言っています。ヤコブは神との格闘の中で、回心し神のみ顔を仰ぎ見ることを許されました。このこととダブって、今ここにヤコブは兄の顔を見ることを許されたのです。

 神との和解の後に、兄弟との和解が続いている。ヤコブは神のみ顔を仰ぎ見ることを許されたゆえに、エサウの顔に兄弟を認めることができたのであります。

 詩編133:1に「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」とあります。

 私たちはここに和解をなさしめたのは、神であることをしるのであります。

主イエスはヨハネ149に「わたしを見た者は神を見たのである」と仰せになられました。

私たちもヤコブのように、神のみ顔を仰ぎ見ることを許されています。

 それは「血潮したたる十字架上の主のみ顔」であります。私たちはどうしても、ある人の顔を見るのがいやだということがあります。その人を許せない、憎しみをもっている人がいるのではないでしょうか。

創世記のカインとアベルのように、彼らが野で出会ったとき、弟アベルに対して兄カインは「顔をふせた」とあります。そこには弟の顔を見たくないものがあった。そして兄は弟を殺すのであります。

 そのはじまりは「顔を見ない」ことから始まっています。その人をなき者とする。人類の歴史は、この時以来、同じようなことを繰り返しています。私たちはカインのように手をくだして相手を殺すようなことをしていないかもしれない。しかし「その人がいなければいい」「死んでしまえばいい」と心ひそかに思うことはないでしょうか。

主イエスは「すべて兄弟を憎むものは人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠の命をとどめていない」と仰せになっています。(ヨハネ315) 

ここで無抵抗主義のキング牧師のことを思い起こします。キング牧師は黒人差別の問題と闘った人です。このために彼は、白人の恨みを買い、彼の牧師館の玄関が爆弾破壊されるということが起こりました。黒人たちの怒りは絶頂に達しました。彼らは武器を手にして、もうこれ以上、白人の横暴を許さない、戦うべきだと叫びます。その時、キング牧師は、瓦礫の玄関に立ち、このように説教するのです。「白人の兄弟が何をしようと、僕たちは彼らを愛していることを、彼らに知らせなければなりません。彼らの病める魂を癒すために、彼らに怒りをもって打ちあたったならば、どうして彼らの病める魂を癒すことができるでしょうか。

主イエスが仰せになられたみ言葉が、今も僕たちの耳に鳴り響いているはずです。「汝の敵を愛せよ」「汝を呪う者を祝福せよ、汝を虐げる者ために祈れ」これこそ私たちの生きる道です。憎しみには愛をもって報いなければなりません」群集の中から「アーメン」「僕たちは最後まであなたと共に頑張りますよ」という声がありました。これはまさに非暴力抵抗の決定的瞬間でありました。

ここにキリストによって神と和解した人たちを見ます。憎んでいる人を赦し、愛することができず、あるいは相手の国を仮想敵視し、軍備を増強する、こんなことをしていて、どうして和解が成立するでしょうか。敵意という問題を取り除くために、神のみ子主イエス・キリストは十字架につかれました。その十字架上にある主のみ顔を仰ぐことによって隣人と和解し、神の求めておられる兄弟愛に生きる者にされたいと切に願う者であります。

ヤコブは失敗なしに神に近づくことはできませんでした。私たちの信仰の歩みも同じようなところがあるのではないでしょうか。神さまはご自身を語るのに「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と仰せになられました。

私たちは今日、主イエス・キリストを信じることによって、アブラハム、イサク、ヤコブの神、即ち「天の父なる神様」と呼ぶことを許されているのであります。

彼らの生涯を導き、歴史を導き給う主を信じ、神の御旨に従って歩む者でありたいと願います。

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