不幸な出発

創世記371-28

07.6.10

飯沢 忠牧師

 ヤコブの生涯からみ言を学んできたが、今朝からヤコブの息子「ヨセフの生涯」について学びたい。

ヨセフの特徴といえば、彼は「夢を見る人」であった。彼は17歳のとき、畑で束ねられた束の夢と星の夢を見ている。この夢は彼の生涯において、そのとおりになる。

 歴史に残る偉人たちも夢を見る人であった。その夢は多くの困難と苦労の末、実現されるのである。私たちも夢を見る者でありたい。

 ペテロはペンテコステの日に群集に向かって、ヨエルの予言を引用して「わたしの霊をすべての人々に注ごう。そしてあなたの息子、娘は預言をし若者たちは幻を見る。老人たちは夢を見るであろう」と語っている。このペテロの説教は今日まで、信じる者のうちに聖霊がのぞみ、その夢は実現されてきた。私たちはそれを2000年にわたるキリスト教の歴史に見る。

 札幌農学校で教えたクラーク博士は、その仕事を終えて日本を去る時、博士と学生たちは一人ひとり馬に乗って札幌の郊外の島松に来た時、そこでクラーク博士は見送りに来た学生たちと別れることになる。その時、クラーク博士が語った有名な言葉は「Boys be ambitious for Christ」(青年よ、大志を抱け)である。

クラーク博士はこの言葉を残して馬に乗り去って行った。後にこの学生たちの中から明治の日本を指導する有力な人物が生まれたのである。新渡戸稲造、内村鑑三に代表される有能な人材が社会に出て、それぞれ立派な働きをした。

 現代の混沌とした時代にあって、この世に平和と幸福をもたらせるために、私たちはキリストと共にあって大いなる大志を抱く者でありたい。神は神を信じ、神の御旨を行おうとする者の内に働いて、それを成し遂げてくださる活ける神である。

 ヨセフの見た夢はそういう夢であった。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。(37:6-8

ヨセフを憎んだ兄たちは、彼らの手によってエジプトへ売られるはめになる。ヨセフの見た夢とは神からの啓示による予言的なものである。聖書を読むと夢の話がでてくる。主イエスの父ヨセフは、マリアのことで悩んでいたとき、主の使いが夢に現れ、神のみこころを示された。

 また東の博士たちは、イエスを拝んだ後、夢でヘロデ王のところへ行くなとのお告げを受けている。聖書では夢はしばしば神のみこころを示される場として記されている。現代の私たちは神の御旨は夢ではなく、聖書を通して告げられている。ヨセフの見た夢は人に語るべきものではなかった。人の誤解をうけるだけだからである。

 ヨセフの二番目に見た夢は、 ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は、わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。(37:9-11
この二つの夢に共通していることは、父と母と兄たちがヨセフにひれ伏すようになるということである。二人の夢は将来、そのとおりになる。この話を聞いた時、父はヨセフを叱り、兄たちは彼をねたんだが、ヨセフの話が傲慢にしか聞こえなかったからである。

 さてヤコブの12番目の息子ヨセフが何故、アブラハム、イサク、ヤコブ伝に続くヨセフ伝として記されているのか。ヤコブの長男ルベンの伝記が記されていないのか。それは神はこの世的なイスラエルの祖先としてすぐれた人間としてではなく、彼らはみなただ神の恵みによって選ばれたからであり、彼らは信仰をもっていかなる困難と逆境の中にも神を信じて、神の御旨に従った人たちだからである。

 神はヨセフの人間的な考えや計画を実行させたのではなかった。聖書はここに神がヨセフを選んで、彼をいかに守り、みちびき給うたか、その神の恵みを告げているのである。信仰者の生涯はみな、そうである。モーセにおいて、パウロにおいて、私たちの信仰の先輩、友人たちを見てもみなそうである。このロゴス教会の創設者・山本三和人牧師もそうである。

 ヨセフは夢の話を兄たちに話したために、兄たちのねたみによりエジプトへ売られてしまう。これが青年ヨセフの不幸な出発である。ヨセフは不幸な運命の縄にしばられ、未知の世界へと運ばれて行く。ヨセフはこの時、神はどこにいるのか、神はなぜこのようなひどい目に合わせるのか、そして自分の見た夢は単なる夢にしかすぎなかったのかと考えたかもしれない。

 ヨセフの身にこのような不幸が起こった原因の一つは、彼は父に可愛がられ、甘やかされて育ったためである。それが人一倍自尊心の強い人間になってしまった。「苗床に肥料が多すぎるのはよくない」という諺がある。今日の日本の子供たちの状況もこれとよく似ているのではないか。

 さてヨセフを売った兄たちは、父ヤコブに何と言ったか「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け「これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください」と言わせた。(37: 31-32)

 かつてヤコブが青年の頃、兄をだまして長男の特権を自分のものにした。今ここに血のついたヨセフの着物を見せられて悲しむヤコブ。このヤコブの苦しみの中に神の救いのみ手を見ます。神はかつてヤコブがなしたことも、そして今、兄たちが行ったこともみなご存知の神である。神は私たち一人ひとりのすべをご存知の神である。それ故、主イエスがこの世に来られて語られた第一声は「悔い改めて福音を信じなさい」である。

 この物語は人間の醜いエゴとエゴの姿を描いている。しかし愛にいます神はアブラハムに語った「あなたの子孫を祝福する」の約束は、兄たちの悪い謀りごとによっても破壊されなかった。

神は異邦人の商人を用い、ヨセフをエジプトの王に仕える役人のもとに送った。そして大いなるを警鐘もって父ヤコブと兄弟たちを、ヨセフを用いて救う活ける神である。

父に甘やかされたヨセフは、エジプトで悲しい、苦しい生活によって、わがままと利己心、自我が打ち砕かれるのである。これは神による訓練である。

ヨセフ物語はイエスキリストの原型であると言われている。ヨセフは銀20シケルで売られたが、主イエスは銀30シケルで売られて苦難の道を歩まれた。ヨセフの生涯は主イエスの小さな伝記としてみることもできる。主イエスは祭司長、律法学者たちのねたみにより、また愛する弟子ユダに裏切られた。そしてこのことが私たちの救いとなった。

これはヨセフの生涯にもあてはめられる。ヨセフはエジプトへ売られて行くが、やがて王宮に仕える食料管理の大臣となり、飢饉の時、兄たちはヨセフのところに来て、ひれ伏して食料を乞い求める、あの夢のとおりになる。この時、ヨセフは両親と兄弟をエジプトに引き寄せ、彼らを飢えの危機から救う。

私たちはヨセフの不幸な出発の中にも、活きて働き給う恵みの神を知らされる。この恵みの神は今日も私たちを同じように導き給う神である。

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