神が共におられる

創世記39:1-23

ヨセフ物語(2)

07.7.8

飯沢 忠牧師

今朝学ぶ創世記39章に記されているみ言葉はこのような内容のものである。

 ヨセフは、兄たちのねたみによってエジプトに奴隷として売られた。その売られた先はエジプトの王に仕える役人ポティファルの家であった。ヨセフは父ヤコブのもとで他の兄弟たち以上に可愛がられ、よい着物を着て幸せな生活をしていた。それが突然、奴隷という自由のない牛と馬と同じように使われる身に変わってしまった。ヨセフはこの大きな変化、逆境の中で自暴自棄にもならず、彼は良い奴隷となろうと決心した。彼は逆境に打ち勝った道を歩みだした。ヨセフは気持ちよく、忠実に働いた。しかもヨセフはイスラエルの民が信じている活ける神を信じていたから良心的な生活をした。

 使徒パウロもコリントの教会に宛てた手紙に「飲むにも、食べるにも、何事をするにも、すべて神の栄光のために」したとある。

 ヨセフはその結果、主人の全財産を管理する責任を与えられた。 (39:6a)「主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。」この言葉は主人のヨセフに対する信頼の極みをあらわした言葉である。ヨセフの「忠実」と主人ポティファルの「信頼」、これは何と美しい職場でしょうか。ヨセフは「品性」においても善良な青年であった。

 主イエスはタラントの例えにおいて「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたは、わずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」とある。

 私たちはここに神と共に歩むヨセフの生きざまに、キリスト者の姿を示される。

 さて、次にヨセフは正しいが故に苦しみを受けるようになる。それは何故か、この世は悪い世だからである。しかし神は活きてい給う。神は正しく生きようとして、苦しめられる者を決して見過ごしにされない。

 ヨセフは主人から信頼されて全てをまかされた。ところが、主人の妻は慎みのない人であった。箴言に「美しい女の慎みがないのは金の輪のぶたの鼻にあるようだ」とある。

エジプトの美しくて慎みのない婦人はヨセフを誘惑した。古代エジプトの性道徳は高いものではなかった。高い地位や富める婦人たちは、みだらな遊びを平気で行っていたようである。ポティファルの妻の家には多くの奴隷がいて全てをやってくれるので、彼女は毎日の遊びの生活にあきあきしていた。そこで彼女は目先をかえた遊び相手としてヘブルの青年ヨセフに目をつけた。ヨセフは今は奴隷の身とはいえ、つい先日まで多くの羊を飼っている家で豊かな生活をしていた。そして神を信じている品性のある魅力的な青年、しかも仕事にも忠実で立派な働きをしている。この青年ヨセフに、慎みのない婦人は誘惑をはじめた。ヨセフにとってこの婦人は御主人の妻である。ヨセフは奴隷の身である。奴隷は主人にお金で買われた物同様であるから、いかなる場合でも主人や奥さんの命令に従わなければならない。この婦人の言われるままに従わなければならない。この婦人の言われるままに従えば、ポティファルの妻であるから何かの折に、主人に一層ヨセフのことを良く言ってくれることも分かっている。そしてまた、この婦人に逆らえば、危害を加えられるかもしれない。そしてポティファルの妻はヨセフを誘惑する。ヨセフはこの時、誘惑を見事にはねのけた。

 (39:9a−10)「『わたしはどうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。』 彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。」私たちはここから学ばなければならないことは「わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」誘惑に打ち勝つ秘訣はこれである。

ヨセフはポティファルの妻に自分の着物をつかまれたので、その着物を彼女の手に残したまま逃げた。その時、彼女は大声をあげて家の者たちを呼び、強姦未遂の狂言をした。その証拠にヨセフが残した着物を使ったのである。

 当時の奴隷は自分の身の潔白に関して一切、口を開くことは許されていなかった。

彼女の訴えた証拠品は有利になった。私たちも悪に満ちたこの世でこれと同じようなことに会うかもしれない。しかしそのことが「たとえ、そうでなくとも」ヨセフはこの来事の中にも、神が共におられることを信じていた。そして相手を恨んで罪を犯すこともしなかった。全てをご存知の神に委ねていた。

 ヨセフは兄たちにねたまれてエジプトへ奴隷として売られ、やっと芽が出たかと思った途端にポティファルの妻の狂言によって投獄される羽目になる。ヨセフはほんとうに気の毒な人である。ペテロの第一の手紙に「もしだれかが不当な苦しみを受けても神を仰いで、その苦痛を耐え忍ぶなら、それは御心に適うことである」とあります。

 また詩篇には「正しい者には災いが多い。しかし主はすべてその中から彼を助けられる」とある。この苦しみはヨセフだけでなく、キリスト者に与えられている苦しみである。今、世界の各地の牢獄に正しいことを行ったために不当な投獄の身となり、苦しんでいる人がいることを忘れてはならない。

 明るい星は暗闇の中で一層、強い光を放つごとく、正しい人は逆境においても、なお一層神の栄光をあらわすものである。

最後にヨセフはこのような逆境を乗り越え、この苦しみを受け入れることができたのは、「神が共におられる」という信仰があったからである。

 創世記の記者は、ヨセフの悲劇を通してこのことを強調しようとしたのである。39章には4回、「神がヨセフと共におられたので」とくり返し、くり返し語っている。

 メソジスト教会の創立者ジョン・ウエスレーは臨終の床において語った有名な言葉は「神が共にいますということは最も素晴らしいことである」と言っている。

 私たちの人生にもいろいろいなことがある。誘惑もあるし失敗もある。また、人から思わぬことをしかけられて一人腹をたてて悩むこともあるでしょう。

 しかし、どんなときにも神が共におられる。復活の主は「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と仰せになられました。

 父のもとで甘やかされて育ったヨセフは、この時でなければ味わえない苦難を味わい、彼の人間成長に役立てていった。

 今朝のみ言葉から、いかなるときにも、神が共にいてくださる信仰をもって神を仰ぎ、雄々しく歩む者でありたい。

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