しもべとなられた神

アドベント第一主日

08.12.7

飯沢忠牧師

(田園調布教会協力牧師)

フィリピ2:1-11(キリストを模範とせよ)

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に到るまで、それも十字架の死に到るまで、それも十字架の死に到るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 2:1−5を読みますとフィリピ教会に問題があったことが分かります。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」「めいめい自分のことでなく、他人のことにも注意を払いなさい」それ故に2:1−2「そこであなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」とすすめています。そして5節に「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」と語り、2:6−11に初代教会の讃美歌といわれる一節を引用しています。

この手紙は紀元60年頃に書かれたものであったかもしれません。そうすると主イエスが十字架におかかりになったのが紀元30年頃であったとするならば、この時まで30年くらいしかたっていません。当時、ここに書かれている讃美歌が歌われていたのであります。私たちは代々の教会で歌いつがれてきた讃美歌によってどれだけ慰められ、励まされてきたことでしょう。

それでは初代教会で歌われていた讃美歌はどのような内容の讃美歌でしょうか。

611節は二つに分けられます。前半の68節はキリストは神様の身分でありましたが、人間の姿となり十字架に死なれました。ここにキリストのへりくだりと従順が歌われています。後半の911節では神様はこのキリストを高くあげられました。すべての舌がキリストを主であると父である神をたたえると結ばれています。

この讃美歌は「キリスト讃歌」といわれます。キリストがどういうお方であったかを歌ったものであります。クリスマスを間近にして初代教会で歌われていたという「キリスト賛歌」に耳を傾けたいと思います。6節以下に「キリストは神の身分でありながら神と等しい者であることを固執しようとは思わず、自分を無にして僕の身分となり、人間と同じ姿になられました」とあります。これはクリスマスのことを歌っています。神が人間と同じ者となられましたとあります。これは不思議なことです。ここに私たちの信仰の一番大切な問題がひそんでいます。ある牧師はここにクリスマスの秘密があると言っています。キリストは自分を無にして僕の身分となり人間と同じ者となられました、とあります。

私たちはクリスマスになるとベツレヘムの馬小屋でお生まれになられた幼子、主イエス・キリストに目を向けます。

聖書はこのようにして神のみ子キリストは僕となられたと告げています。マタイによる福音書に救い主の誕生を知らせる不思議な星に導かれて東の博士たちはユダヤの王ヘロデの宮殿に行って「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねています。これは当然のことです。神のみ子が馬小屋でお生まれになったことはとうてい考えられないことです。

人間は「上昇志向」をもっています。一生懸命勉強していい学校に入り、いい就職をし、いい家庭をもつ。今の子供はあまり言わなくなったかもしれませんが、昔は社長になりたい、総理大臣になりたいという子供がいました。上昇志向そのものは人間に必要なものであります。

ところが初代教会の「キリスト賛歌」ではキリストは、自分を無にして僕の身分となりとあります。当時の僕とは奴隷のことであります。神は人間を救うために奴隷となられた。これは私たちにとって強烈な出来事であります。このことは旧約聖書イザヤ書52章の終りから53章全部にかけて告げられています。53:2−5「渇いた地に埋もれた根からはえ出た岩枝のようにこの人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた。彼の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

口語訳聖書の53:12には「これは彼が死にいたるまで自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数

えられた」とあります。主イエスがバプテスマのヨハネから罪の赦しの洗礼を受けられたことはご自分が咎ある者と共に数えられたという立場にあったからであります。

 以前、山谷で伝道していた中森幾之進という牧師は、「下へ上る歌」という本を書きました。神様は人となって最も貧しくなられました。先生も山谷の人々と同じ日雇い労働者となって伝道した人であります。皆さんもご存知のマザーテレサはある時、路上で倒れている男が「渇く」という言葉を聞いて十字架上で「渇く」というキリストのことを思い、ミッションスクールの校長を辞めて貧しい人々に仕える道に入っていったのであります。

 神様が人となって自分を無にするということは、私たちを愛するゆえにご自分の魂を注ぎ出し、そのあげく死に到ったのです。主イエスがひたすらなさったことは、神のみ心に従って私たちを愛しとおすこと、そして十字架の死に到ったのです。

 フィリピ2:9−10 「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 神様は低きに徹したキリストを復活させ高くあげられました。それは私たちの罪と死からの救いを全うされたのです。それ故「天上のもの、すべての天使、地上の全被造者また地下、よみにあるすべての霊たちも「イエス・キリストは主である」と信仰告白をし全宇宙をあげて主イエスの前にぬかずき、賛美の歓声をあげる光景をここに見るのであります。

 イザヤ書42章に「わたしが選んだ わたしの僕を見よ」と言われます。このみ言葉は主イエス・キリストを指しています。「あの主イエスを見よ!」

 1年の終わりの月を迎え、主から与えられたこの年の歩みを省み、その中で人に対して、自分に対して心が弱くなり、数々の過ちを犯してきたことを思い起こします。

 フィリピ教会員が悩んでいる問題に対してキリスト賛歌を取り上げ、「あの主イエスを見よ」と語られているのであります。この言葉は私たちにも語られているのであります。クリスマスはひと言で云うと「神の愛が生まれた日」であります。私たちは自らの心の中にひとり子を給わった神の愛に深く思いを馳せる者でありたい。

 有名な「戦場のクリスマス」という話をご存知の方が多くおられると思います。激しい戦いの最中、クリスマスの夜、クリスマスの讃美歌の歌声が聞こえてきました。そうすると今まで戦っていたドイツ兵とイギリス兵が一緒になって歌ったとい話であります。平和の主として来たり給うた方は、私たちに平和をもたらしてくださる方であります。

 あの美しいクリスマスカードからは馬小屋のにおいをかぐことはできません。クリスマスを間近にして世界中で、日本もまたきらびやかなクリスマスの装飾がほどこされています。

主イエス・キリストは明日十字架につくという最後の晩餐の前にひざまづいて、弟子たちの汚れた足を洗い「私がしたようにあなたがたも同じようにしなさい」と仰せになりました。主は「いと小さき者の一人にしたのは私にしたのである」と言われました。独り子を私たちの救いのために与えて下さった神の愛に応えて愛の業に励む者になりたいと願う者であります。

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