真実な愛

 コリント第一の手紙13:4-7 (2008.1.13

飯沢忠牧師(田園調布教会協力牧師)

コリントの信徒への手紙一の13章はキリスト教の愛の教えがどのようなものであるかを語っている箇所であります。今朝学ぶ47章においてパウロは愛について15の言葉を挙げています。

 先ず最初に「愛は忍耐強い、愛は情け深い」と二つの愛について肯定的な言葉を語っています。そして次に愛は「ねたまない」と語り、ここに8つの愛に関する否定的な言葉を語るのです。そして最後に、愛は「真実を喜ぶ」と語り5つの愛の言葉を肯定的な言葉で語っています。

 このようにしてパウロは15に及ぶ「愛の性格」について語っています。今朝はその全てを学ぶ時間がありませんのでこの中の幾つかをあげて、神の言葉に聴きたいと思います。

 この15の愛の言葉に自分の名前を入れて読むと、どうなるのでしょうか。「○○は忍耐強い、○○は情け深い、○○は・・・・・・」 肯定の言葉が否定の言葉になり、否定の言葉が肯定の言葉になるのではないでしょうか。それではイエス・キリストを入れるとどうなるのでしょうか。全てあてはまります。

 パウロがここで語っている愛の言葉は私たちの生活すべてに関係していることが分かります。

先ず「愛は忍耐強い」のみ言葉に学びましょう。前の口語訳では「愛は寛容である」と記しています。

ギリシャ語の原文では「永く忍ぶ」という意味の言葉を用いています。忍耐強い、寛容であるためには、相手より自分が人格的に上にいなければ、寛容であることができません。もし、子どもが過ちを犯したとします。その時、親が子どもと対等だとけんかになります。親は子どもの欠点や弱さを知っていますから、子どもの過ちに対して共に苦しむのです。そこで親の愛は寛容となるのです。主イエスがそうでありました。

自分を十字架につけた人々に対して「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分が何をしているのか、分からないでいるのですから」と祈られました。このキリストの姿こそ寛容そのものであります。パウロはコリントの教会に宛てた手紙において「キリストの心を心としてどうか寛容になってほしい」とすすめています。

これは愛の秘訣です。

次に愛は「ねたまない」とあります。ねたみは私たちの生活の中で深刻な問題の原因を作っているものです。ねたみというのは他人が持っているものを自分のものにしょうとするけれども、それが出来ない時、相手を批判し、その人の人格を傷つけるようなことをするのです。それがねたみというものであります。ねたみというものは要するに、自分を重んじてほしい、自分を愛してほしいということなのです。私たちの心の中には嫉妬心というものがあって、もやもやと燃えている。この嫉妬心は自分の力ではどうすることも出来ない。キリスト教でいう「罪」というものは、ねたみをみつめると分かる。嫉妬心の燃え上がる火元、それは自己中心の罪というものであります。

 次に愛は「いらだたず」とあります。この言葉の前には「自分の利益を求めず」とあります。自分の利益のことばかり考えていると平安がなくなります。そして少しのことでも腹を立てたり、いらだったりするのです。パウロが「自分の利益を求めない」のすぐあとに「いらだたない」といっているのは当然のことであります。これを愛に照らし合わせて考えてみると、自分はこんなに愛しているのに相手が愛してくれないと、愛のいらだちが起こる。愛も自分の思いどうりにならないと「いらだつ」のです。

 パウロは愛の人は物事に動かされない人、人と争おうとしない人、いやなことがあっても平静心を持って耐えることを知っている人、それはその人が本物のものをもっているからであると言っているのです。愛がある人は乱れない、人の心に愛がないと健全になれない。パウロはそれ故に、愛がないとすぐに怒ったり、ねたんだり、高ぶったり、自慢したり、礼を失することがあると言っています。

 また愛は「恨みを抱かない」とあります。この恨みに関してこういうことがありました。広島県のある町に住む藤井玉司牧師証です。藤井牧師は青年時代に小学校の先生をしていました。町のある立派なご家庭の娘さんを愛するようになったのです。二人は将来の約束をしました。その後、藤井さんは上京して、昼間働いて夜、日大に入って学んでいました。夏休みに家に帰ると、娘さんは家の人によって隠され会うことが出来ませんでした。藤井さんは娘さんの両親を恨み、脅迫状を送りました。このために懲役一年に処せられました。一年後に牢獄から出獄すると、藤井さんは復讐の鬼となり、相手の家に放火し、捕らえられ再び刑に服しました。獄中では相手を恨む憤りは募るばかり。出獄するや否や、蛇を祭る神社に夜、お参りに行き、杉の木に人形をつけ呪いの釘を打つということもするのです。

 その頃、キリストを信ずる従弟の訪問を受け、イエス・キリストの教えを聞くのです。藤井さんは信仰を与えられるようになるのですが、その娘さんがある軍人と結婚したと聞くと、激情してその家にある悪い病の系統があるとの印刷物を配布し、三度目の入獄となります。

 このようにして獄にいること5年、そして最後にこの罪人の自分を救ってくれるのはイエス・キリストの十字架によるほかにない「わたしは道であり、真理であり命である。わたしを信ずる者は死んでも生きる」という主イエスの言葉に強く迫られ、聖書を読んでは祈り、祈っては聖書を読む人となるのです。獄中で自分の罪を神の前で深く悔い改めた藤井さんは、飛山という牧師に迎えられて出獄します。その時、藤井さんはこのように告白します。「ああ、あやまてり、あやまてり、我は我が半生を復讐のために生きてきた。己の非を語らず、己の罪を責めず、他人を憎み、恨み、遂に法律上の大罪を犯すに到った。どんなにか相手の人は私のために苦しめられたことであろう。そうだ、復讐することは神にあるのだ。復讐の鬼となったのは実に我が内にある深き罪の結果だった。聖霊よ、我を清め給え、キリストよ、来たり給え」と心の底から祈りました。その後、藤井さんは神学校に入り、牧師となりました。「愛は恨みを抱かない」

 最後に愛の結論としてパウロは4つの言葉を語っています。

「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」

「忍ぶ」とは原語では「覆い隠す、秘密を守る」という意味の言葉です。ある人はこの言葉をこのように言いました。母親は子どもの失敗を時には父親に知られないように覆い隠す。

 ペトロの手紙48節に「愛は多くの罪を覆うからです」とあります。愛は人の罪を赦すことを知っています。神の愛、イエス・キリストの十字架の愛はそのことです。そして愛は、「すべてを信じる」、神の愛はこれです。人は信頼される時、力が湧き出てきます。主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と仰せになっています。このような信仰はどんな時にでも望みを持つのです。それ故「愛はすべてを望む」のです。

ここでパウロは愛と信仰、愛と希望について語り、そのうえで愛は「すべてに耐える」と結んでいます。

 愛は忍びから始まって愛は耐えることで終っています。愛の結論は耐えること、忍耐は愛のすべての根拠となっています。

 神様の恵みを信じないところには忍耐はありません。神様の恵みを信じない愛はありません。そして、真の愛のあるところに希望と信頼が生まれるのです。このことが私たちの日々の生活の中で忍耐となるのです。ここには深い愛の奥義が語られています。

 私たちはこの世に生まれ、聖書が指し示す愛を追い求め愛を知り、少しでも真実な愛に生きる者になりたいと願う者であります。

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