十字架の言葉  

コリントT 1:18−25

08.3.2

飯沢 忠牧師

(田園調布教会協力牧師)

よく言われることでありますが、もし臨終の床で、今まさに息を引き取ろうとする人から、「キリストの救いを教えて欲しい」と言われたら、すぐに語るべき言葉の準備を日頃からしておかなければならない。あなたはどうでしょうか。牧師を呼ぶ時間がないとしたら、どうするのでしょうか。これは人に対することだけでなく、自分自身の信仰の問題であります。

 今朝のみ言葉は私たちの信仰の根本について語られている箇所であります。当時、コリントの教会は四つの派に分かれていました。ロゴス教会も教会の将来について語る時、いろいろな考え方があると思います。パウロはコリント教会の生みの親として教会の人々の信仰が誰によって与えられたか問うております。そのために伝道者パウロは、自分の信仰をもう一度明らかに語り、キリストの救いについて語っています。それが18節の言葉です。 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」

 パウロにとって自分の思想も行動も一切がイエス・キリストの十字架がすべてでした。

パウロが語る「十字架の言葉」とはどういうことでしょうか。パウロのいう「十字架」は単なるアクセサリー的なものではなく、十字架の意味をはっきり理解していなければ、私たちの信仰に確信をもつことができません。「キリストの十字架」とは何なのでしょうか。

十字架は人間の救いのための出来事であります。それでは人間の救いとはどういうことでしょうか。「人間の救い」については人それぞれに考えがあります。その人に今、お金が必要であれば、お金が救いであります。病気の人は医師と薬が救いとなります。あるいは自分の能力や才能、健康が自分の救いとなっている人もいるでしょう。あるいは喜びや悲しみを共にしてくれる親や夫、妻、兄弟、友人という人もいるでしょう。「救い」については自分が一番よく知っています。パウロはここで教会の人に向かって「あなたにとってキリストの十字架は、自分にとってどういう救いなのか」と問うています。

私たちの救いをほんとうに知っているのは、私たちの造り主である神のみであります。

しかし、人はそうはいわない。人間が求めている救いとは、自分の欲望の実現ではないでしょうか。それは自己の絶対化であり、自分を神とする考えであります。十字架の言葉はそのような考えが救いだとは言っていません。

 聖書が語っている救いとは、自分の考え、自分の正しさを主張するのではなく、神の正しさを実現することであります。なぜなら、私たち人間は神に造られ、神の栄光をあらわす者として造られたからであります。このことを知るまでは、人間とは何か、私とは何か、私の生きる意味を知ることはできないのであります。

 私たちはほんとうにあるべき自分を見失っている。聖書でいう「罪」という言葉は的外れという意味であります。的からそれた矢のように、どこに目的をもって生きているのか、分からない。ただ浮き草のように当てどもなく流されている。その中で幸せと救いを求めて生きている。これでは、神の創造の目的からそれて生きてしまいます。

 このような状態ではエゴとエゴのぶつかり合いは止まず、戦争や争いは絶えることがない。そのために飢えと貧しさの中にある人々は、ますばかりである。

 このような人間の救いのために、神はキリストの十字架の死をもって人間の様々な問題から救い出すために来たり給うたのであります。

 これは自己を絶対化し、自分の正しさを主張している者にとって正反対なことであります。

それ故、パウロは18節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」といっているのであります。ここに十字架の救いを素直に理解し、受け入れられない難しさがあります。この難しさは神に対して自分の立場を180度方向転換して、神に向かう以外ないのです。

 それはよく例に挙げられる、上り列車と下り列車の話であります。神に背を向けた下り列車に乗っている人たちの中には、人格的にも立派な人たちも乗っている。それに対して神に向かう上り列車には必ずしも聖人のような人ばかり乗っているとは限らない。意志の弱い人、人から尊敬されない人もいる。しかし、この人たちは神に向かっている人たちである。しかし神に背を向けた状態の下り列車に乗っている限り、その終わりは死であり、永遠の滅びであります。この生き方に救いはないと聖書は宣言しています。

ここで問われるのは、自分の今の生き方が正しいのか。聖書が告げている神が正しいのか。このことに気がつくまで十字架の言葉は分からないのです。キリストの救いが分からないのです。パウロは人間がいつも歓迎しているものを二つあげています。一つは「知恵」を求めることであり、もう一つは「しるし」を求めることであります。自分を幸せにする知恵、自分が偉大な力を与えてくれるしるし、これらのものは人間にとって救いをもたらすもです。

 今は受験の季節であります。受験にあたって良い結果をもたらすという神社に行って知恵の力としるしを求めて祈ってくる。この考えに生きている人にとってキリストの十字架ほど愚かに見えるものはありません。十字架はナンセンス、つまづきでしかありません。

 この世の知恵をどんなに働かしても、十字架の神を認めることはできません。21節に「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」とあります。その通りであります。

 ある伝道パンフレットに20世紀最大の神学者と呼ばれているスイスのカール・バルト教授がアメリカを訪れた時、ある雑誌記者が「博士、あなたにとって一番大切な神学は何ですか」と質問しました。すると年老いた神学者バルトは、しばらく目を閉じていましたが、やがて静かに「主、我を愛す」を歌い始めたというのです。この讃美歌は世界中の子どもたちも大人も愛唱している讃美歌です。讃美歌T4611番「主われを愛す 主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス われをあいす」、聖書はこの歌のとおりを語っているのであります。

 難しい神学の根本もこれですよと、大神学者バルトは語ったのです。以前、新聞に幼い子が川に落ちて溺れているの見て、小学校4年生の女の子が自分の命を投げ出して助けたという記事を見ました。まして、私たち人間を造り、私たちを愛している神が私たちをそのまま放っておくでしょうか。イエス・キリストはこのままでは人間が駄目になってしまう、滅びてしまうことを御覧になって神の世界からこの世に飛び込んでこられ、十字架の死をもって私たち人間を救ってくださったのであります。

 今は主の十字架の死を思いめぐらす受難節レントの中にあります。キリストの十字架は私たちと神さまと出会わしめ、十字架によって救われることこそ、私たちが神を見出す真の知恵であります。私たちが自分のほんとうの姿を見出すのは、神の力による以外にあにのです。聖霊の働き以外にないのです。そのためには祈らなければなりません。

 パウロはここでイザヤ書2914節の言葉を引用して「それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び 聡明な者の分別は隠される。」と語っています。

 イエス・キリストの十字架は全人類に与えられた不思議な神のみわざであります。私たちはただ神さまの一方的な恵みと憐れみによって救われるのです。

この不思議な出来事は人間の知恵でははかり知ることのできないことであります。

神の前にあっては、この世の知恵も学者も無力です。聖路加看護大学の日野原重明先生は医師として多くの人の死んでいく姿に接してこのように語っています。

 どんな偉大な人も死の前には弱い存在だ。死んで横たわっている姿はみな裸の同じ人間である。

25節「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」パウロは結論のようにこのように告げています。

パウロは他の手紙で「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」と書いています。

受難節の中にあって、もう一度キリストのご受難についてあの有名な旧約聖書のイザヤ書53章を読むことも有意義なことと思います。

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