神の愛と知識

   08.7.13

   飯沢 忠牧師  (田園調布教会協力牧師)

  フィリピの信徒への手紙19-11

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

この講壇でフィリピの信徒への手紙を学んでいますが、この手紙の特徴の一つは「愛し方」についての教えであります。前回学んだ箇所も愛についての教えでした。今朝のみ言はその続きであります。前回のところでは「キリスト・イエスの愛の心であなたがた一同のことをどれほど思っているか」とありましたが、今朝のところでは9節「わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、・・・」 パウロは愛するフィリピ教会員のことを覚えて「わたしはこう祈ります」と言っています。パウロは愛する人のことを思うとき、何よりもその人のために祈りました。そのパウロの祈りの内容はこうであります。「わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(9-11節)

「あなたがたの愛がますます豊かになり」、口語訳では「愛が深い知識においてするどい感覚において」とあります。パウロはこのように愛によって私たちの生活が生涯の最後の日に備えることができるようにと。愛する人の全生涯のために祈っています。これはすばらしい祈りであります。

 私たちはたとえ健康を与えられ、なに不自由なく生きることができたとしても、人を愛する生活がなければ空しいことです。ある人はこう言いました。「愛というものは、人間のもっとも高い、そして最後の人間らしい可能性だ」。愛が私たちの生涯の中で全うされなければ、人間的に生きたとは言えないのです。

人間にはいくつかのその人の存在の種類があるといわれます。「あの人はいなければいいのに」このように言われる人は最低に人です。「あの人はいてもいなくても別に私に関係ない」これも寂しい人です。「あの人がいると雰囲気明るくなり、暖かくなる」この人が天寿を全うして、この世にいなくなってもその人のことを思い出すたびに私たちの心の中に思いやりや優しさが湧き上がってくる。このような人は死んでも、その人の愛が私たちの心の中に生き続けます。

 どうしたらこのような人になることができるのでしょうか。パウロはそのためには「知る力と見抜く力を身に着けて」と言っています。愛は「知る力」によって豊かになるというのです。イエス・キリストの私たちに対する愛を深く知ること、そして自分自身についても深く知る。そこから他の人を深く知る力が増し加わるのです。

 イエス・キリストはこう仰せになりました。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくしてあなたの神である主を愛しなさい」。第二もこれと同じように重要である「隣り人を自分のように愛しなさい」(マタイ2237)ここに聖書の中心メッセージである「愛し方」が主イエスによって語られています。

次にパウロは愛することは「見抜く力」であると言っています。私たちは偽りの愛にだまされることがあります。真の愛は、何が偽りで、何が本物か見抜く力をもっています。まことの愛は偽りを行うことをしません。悪いことを行うこともできません。真の愛は深く知る力と深く見抜く力とをもって、偽りの愛を見分け、本物をとらえようとします。パウロの祈りはあなたがたの愛がこのことにおいて、ますます豊かになりますように祈っています。私は一月に一度ですがみなさんにお会いするのが楽しみです。ここに主にある愛の交わりがあるからです。

 最近、世の中に起こっている現象の一つは、おれおれ詐欺をはじめ数々の食べ物において私たちをだますものが、横行しているという出来事であります。いわゆる偽装事件であります。このような世であればこそ、私たちは真の真意のみ言にかたく立って歩まなければなりません。

 10節の後半に「キリストの日に備えて清い者、とがめられることのない者となり」とあります。キリストの日に備えて、即ち最後の審判の日に神の裁きに耐える者とならなければならないと祈っています。

 キリスト・イエスの愛に生かされ、愛による私たちの行いがキリストの裁きに耐えられるものでなければならない。ここに「とがめられることのない者となり」あります。口語訳では「純真で責められるところのない者」と訳しています。「とがめられることのない純真」という言葉の原語の意味は「太陽の光にかざして見る」であります。

 陶器師が陶器を市場に売りに出すとき、悪い商人はひびの入った陶器に「ろう」を入れて出すことがあるそうです。そのときは買う人はそれを見分けるのに、太陽の光にかざしてひびが入っていないかを見るのです。神様が私たちに求められるのはひびが入っていない純真な愛、真実な愛であります。ある訳ではこのところを「純真で他人をつまずかせることのない者になろう」と訳しています。

最後に11節「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」キリスト。イエスの愛の心に生かされて歩む人は「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほど受け」る。

主イエスはヨハネによる福音書15章5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしとつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と仰せになりました。

 「義の実」とはキリストの十字架によって、私たちの罪が赦され義とされた者がその恵みに感謝し、キリストの愛に生かされた生きざまによって結ぶ実のことであります。神を愛し、隣り人を愛する結果、結ぶ実でもあります。

 その後、たとえ何度罪を犯してもキリストの十字架の故に、主が仰せになっているように七度を70倍するほど、即ち無限に赦され神に義とされる。それをパウロはここで「イエス・キリストによって与え られる義の実をあふれるほど受け」と言っているのです。それ故、無限の神の愛を「神の栄光と誉れとをたたえることができるように」神のすばらしさを讃美することができるようにと語っているのです。これがキリストの福音、喜びのおとずれ、神の愛です。

 私はこの箇所から、ある兄弟のことを思い起こします。それはその方が20代の頃、結核にかかり、医者からあなたは30歳まで生きられないでしょうと告げられたのです。このことを深く悲しみ、鉄道線路に行き、そこで自殺しようとしていた時のことです。近くの教会から讃美歌の歌声が聞こえ、その声に導かれて教会に入るのです。そしてキリストの十字架と復活の話を聞くのです。

この兄弟は「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほど受け、神の栄光と誉れとを」、救われたときから生涯90歳になるまで、このあとで歌う527番「わがよろこび わがのぞみ わがいのちの主よ ひるたたえ よるうたいて なお足らぬをおもう」といつも歌っておられたのを思い起こすのであります。私たちもやがて来るキリストの日に備えて、この兄弟のような信仰者となることを願う者です。

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