主にある喜び

09.3.8

飯沢 忠牧師

(田園調布教会協力牧師)

★聖書

フィリピの信徒への手紙31

では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。

 この世にあって私たちがほんとうに生きる喜びを感じるのはどういう時でしょうか。何もかも忘れてしまうような喜びの中にある時は「生きていて幸せだ」と感じます。しかし、真の喜びは必ずしも嬉しい時だけにあるものではありません。仕事とか、健康とか、財産とか、別れなどで嬉しい気持ちになれなくても、つらい思いをしても、主のため、人のために精一杯やったと思える場合、それは生きるうえで大きな喜びとなるのではないでしょうか。

 先ほど交読した詩篇136編では多くのことを神に感謝しています。このことを更に広げて、どんな時も神に感謝します。その恵みは永遠に絶えることがないということになります。そうするとき、喜ぶことができるのは悲しい時でも、つらい時でも一つの条件があるとするならばいいということになります。

 今朝、与えられたみ言葉で言えば「主において」ということであります。「パウロが主において」とはどういうことか、簡単に言えば「主のおかげで喜ぶ」ということであります。自分を喜ばせてくれるものは、今は何もないと思われる時でも主を信じているから、主のおかげで喜ぶことができると、パウロは言っているのです。

先ほど交読した詩篇136編には「喜ぶ」という言葉はありませんでしたが、「喜ぶ」という言葉の代わりに「感謝する」と言っています。感謝するということは、自分の力でできるものではなく、相手がある、「あのお方のおかげで喜ぶことができる、だから感謝します」というのです。このことから信仰者にとって喜ぶということは、どういうことか分かってきます。なぜなら信仰者にとって喜ぶというのは、自分が主に救われて今はあるということ、従って自分は生きるにも死ぬにも主のために生き、主にあって死ぬ、あらゆることが主によることを信じているからであります。

ローマの信徒への手紙147節〜8節に「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」とあります。私たちは信仰をもつことによって新しくつくり変えられたこういうことが言えるようになるのであります。

新しく変えられなければ、いつも喜ぶことは、とてもできるものではありません。私たちはいつも恵みを与えてくださる方を見ていなければ喜びも感謝もでてこないのです。

主イエスがお語りになった「放蕩息子」のたとえ話の放蕩息子の例を考える時、彼は放蕩な生活の中で彼なりの喜びを感じていたでありましょう。しかし、それはまじめな生活をしている人から見れば、本当の喜ばしい生活とは思えない、本当の意味で喜びが何人であるかということが分かっていないといえるのです。その反対に、今、不幸のどん底にある人で誰が見ても感謝できると思えないような生活をしていても信仰を持ち、主への感謝をもって生きている人こそ、真の喜びを知っている人です。

詩篇136編の「感謝する」という言葉は「讃美する」という意味でもあります。あるいは「自分の罪を告白する」という時にも使われる言葉です。そうすると「感謝する」と言っていますが、「神に対して自分の罪を告白」したり「神を礼拝する」ことによって神に感謝するのです。
そのお方と自分との関係を知って自分は罪を言い表し、そのお方のこの私に対する恵みを確信して感謝するのです。そうでなければ、私たちの喜びはまことにはかないものであります。ここに喜びが与えられる「場」がどこにあるかをパウロが語っています。この言葉は大切な言葉であります。

つまり私たちが毎日の生活において、いかなる喜べない状況にあったとしても、復活のキリストに捉えられていること、主の守りの中に生かされている者であるということ、悲しみや辛さ、不安の中にあってもなお、主が喜びを最終的なものとして与えて喜びで私たちを包んでいてくださるのであります。

私たちは「悲しみ」を経験します。「苦しみ」を持つことがあります。しかし、それで終わらない、キリスト者の根底には「キリストが共にいて下さる喜びが常に与えられている」からであります。

 「共にいてくれる人」の究極のところに「イエス・キリストが立っていて下さる」ことが、ここに示されているのです。使徒信条に「われは主イエス・キリストを信ず」と告白します。バルトという神学者は「われは主イエス・キリストを信ず」ということは「私は孤独ではない」ということにほかならないと述べています。

 イエス・キリストが私たちと共に歩んで下さるならば、このことを信ずる者は、もはや孤独でない!「イエス・キリストが私たちと共におられること」、これが私たちの喜びの根源であります。私たちがたとえ、どんな状況にあったとしても、このことが慰めと喜びをもたらすのです。もしも今、「喜び」がないとするならば、キリストが共にいて下さるという神による救いの事実から目をそらしているからかもしれません。このように今朝、自らの信仰を問うてみることが必要となります。

 キリスト者がたとえ、あらゆるものを失っても「キリストご自身を失うことがない」、そうであるならばキリストの中において私自身も失われることはない、それが私たちに喜びをもたらす源であります。

 私どものために十字架上ですべてを失われた主イエス・キリストは人間が大切な人や物を失う時、その痛みや悲しみを主はすべてご存知でいて下さいます。失う痛みや悲しみを越えて、最もよいかたちで再び与えて下さるという信仰が私に喜びを与えて下さるのです。

 パウロはこのことについて、別の面からこのように語っています。コリントの信徒への手紙U14節〜5節「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」 これは艱難の中で神からの慰めを受けた経験をもつ人は同じように艱難の中にある人々を慰める働きをする者として神から用いられるというのです。私たちも主から与えられた喜びをもって他の人の喜びのために働く者として神から用いられ得るのだ!と言ってもよいのです。

 この光栄ある務めを担っている者であることを共に覚えたいと思います。悲しみと苦しみの中にある人がいるならば、その人のそば近くにキリストがいたもうことを知ることによって、その人が喜びを見出すことができるように仕えていかなければなりません。

 喜びを失っている人、キリストを見失っている人がいるならば、主から与えられる喜びをもって、その人の喜びの回復のためにキリストとの出会いのために仕えていくのです。

 最後に水野源三さん詩とその生きざまについて、もう一度ここで学びたいと思います。

水野源三さんは1946年、敗戦から一年たった頃、長野県・坂城町(さかき)に集団赤痢が発生しました。その時、源三さんは小学校4年生で発病した55人の生徒の一人でありました。源三さんは発病後、脳膜炎を起こし脳性麻痺となりました。それまでの源三さんは元気な少年で信州の野山を飛び回っていました。それが9サイ8ヶ月で終わりました。彼が12才になった時、パン屋さんをしている水野さんの店に障害をもったこの町出身の宮尾牧師が杖を

ついてパンを買いに来ました。その時、宮尾牧師は奥の部屋に人がいる気配を感じました。二度目にパンを買いに来た時、病人がいることを知り、聖書を置いて帰るのです。源三さんは小学校4年の一学期までしか学校に行ってませんでしたのが、利発な子で聖書を読むようになりました。渇いた心に命の水が源三さんの心に染み渡りました。源三さんが「瞬きに詩人」となったのは町の診療所の医師が診療の時、「はい」という時は目をつぶりなさいと言われたことがヒントになったのです。母は五十音図を使って一字一字を拾うことを思いついたのです。源三さんはこういう詩を作っています。

 「口も 手足も きかなくなった 私を28年間も 世話をしてくれた母 まばたきでつづった詩をひとつ残さずノートに書いてくれた母 詩を書いてやれないのが悲しいと言って天国に召されていった母」

 お母さんが召された後、義理の妹の久子さんが源三さんを助けます。

 「キリストのみ愛に触れたその時に キリストのみ愛に触れたその時に

    私の心は変わりました 憎しみも恨みも霧のように消えさりました

   キリストのみ愛に触れたその時に キリストのみ愛に触れたその時に

    私の心は変わりました 悲しみも不安も雲のように消えさりました

   キリストのみ愛に触れたその時に キリストのみ愛に触れたその時に

    喜びと希望の朝の光がさしてきました

   本当にありがとう お前が来なかったら つよくなかったなら 

   私は 今どうなったか 

   悲しみよ 悲しみよ お前が私をこの世にない 大きな喜びが かわらない平安がある

   主イエス様の みもとにつれて来てくれたのだ」

 源三さんに続いて洗礼をうけたご両親が次々と天に召され源三さんも47才で弟の哲男さんの腕の中で静かに息を引き取りました。源三さんは最後まで「主にある喜び」によって歩まれました。私たちもこのような信仰にならう者となりたいと思います。

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