人生の嵐と信仰

096.14

飯沢 忠牧師

(田園調布教会協力牧師)

マルコ43541突風を静める

その日の夕方になって、イエスは「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群集を後に残して、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫のほうで枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」弟子たちは非常に恐れて「いったいこの方はどなたなのだろう」嵐や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 主イエスの3年間にわたる伝道活動のおおくはガリラヤにおけるものでありました。主イエスは神の国の教えを語り、また多くの病人を癒されました。37以下を見ますと、「おびただしい群集がイエスのしておられることを残らず聞いてそばに集まって来た、そこでイエスは弟子たちに小船を用意してほしいと言われ、群衆に押しつぶされないためである」とあります。主イエスは湖に出された小船の上から大声で群衆に語られたのであります。その日の夕方、「イエスは向こう岸へ渡ろう」と言われ、弟子たちはそのイエスの言葉に従って舟に乗って漕ぎ出した。そこにガリラヤ湖特有の突風が吹いて来て嵐となるのであります。

 この出来事は私たちにおいても突然、思いがけない時に起こるのです。その時、私たちはどのように対処すべきか。今朝のみ言葉は語っています。この舟には漁師である4人の弟子が乗っていました。

37節に「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水浸しになるほどであった」とあります。漁師あがりの弟子たちは、この嵐がどのようなものであるかを永年の経験からよく知っているだけに、恐怖に襲われたのです。この時、弟子たちには、先ほどまで聞いた教えが何の役にも立たず彼らはただ取り乱し、死の恐怖におびえ、おじまどうだけでありました。

 これは自然の恐ろしさであり、人間は大自然の脅威の前には無力であります。21世紀の現代、人間は科学的文明を発達させ、それに頼りすぎ自分たちの方を過信し、大部分の人は神を恐れ、神を信じることをしておりません。

 また私たちは情報化社会に生きており、日本で、世界で起こっていることをその日のうちに知らされる中に生きております。様々なニュースに不安をもちます。戦争のニュース、自然災害、病気の蔓延、世界的危機などが次々と起こってくる中におります。個人的にも平穏な生活の中である日、病に倒れたり、人間関係や仕事上の問題など、私たちの生活の土台から揺り動かされる試練に襲われることがあります。

 そのような「人生の嵐」の中で私たちはどのように対処したらよいのでしょうか。嵐の中の弟子たちと同じように不安に襲われ自分を見失ってしまうかもしれません。ここで言われている「舟」とは聖書では「教会」を示しています。現代の嵐の中で教会は内にも外にも問題をかかえ、課題を与えられています。

 第二次世界大戦後、世界のキリスト教会は世界が荒廃している中で、教会はどうあるべきか、世界教会協議会という大きな教会の交わりを作りました。その旗印としたのがこの物語です。そのシンボルマークをご存知の方もあると思います。弟子たちは嵐の中で舟に入ってくる水を必死でかき出し嵐と格闘していたと思います。この嵐の中で主イエスは舟の艫の方で眠っておられました。主は弟子たちに舟を漕いで向こう岸へ行くようにお任せになり、眠っておられたのです。弟子たちは主イエスを運ぶ務めを与えられたのです。その務めの中で主イエスはたちのことを心にかけておられるのだろうが、溺れそうになっている自分たちを主は助けないで眠っておられるのかと思ったことでしょう。

 38節 弟子たちはイエスを起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えています。主はこの日、律法学者やファリサイ人の厳しい監視の中で緊張しながら群集に大声で語った。疲れもあり熟睡しておられました。父なる神のみ旨に従い、神に信頼して眠っておられたのです。この熟睡しておられる主のみ姿の中にどのような問題や試練の中にあっても神を信頼し、平安でいられる姿を見ます。一方、主イエスが同船しているにもかかわらず、取り乱している愚かな弟子たちの姿を見ます。弟子たちは主イエスを覚えて「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と主にすがっているのです。不信仰をさらけ出し、孤独と不安の中にあっても、主に呼びかけることができる人は幸いです。

 洗礼を受けたけれども教会を離れ、主の十字架の救いにあずかった恵みを忘れていても、いざという時、主イエスの名を呼び求めることのできる人は幸いであります。

イギリスにスポルジョンという有名な牧師のエピソードにこんな話があります。ある老婦人がかつては輝かしい人生を歩み信仰に燃えていましたが、今は高齢となり健康も損ない、信仰も衰えていました。スポルジョン牧師が「いかがですか」と尋ねると「自分も真の信仰も主イエスに対する信頼もなくなりつつある」と語りました。スポルジョンは何も言わないで机のところへ行き、一枚の紙に「私は主イエスキリストを信じていません」と書いて、「あなたはこれに署名をしなさい」と言ったそうです。老婦人はこれを見て我に返り、「先生、わかりました。私は署名できません」と言いました。スポルジョンは「あなたはやはりイエスさまを信じておられるのですね。イエスさまはそれをご存知ですよ」と慰め励ましたそうです。

 熟睡しておられるイエス様を動かして起こした時、「イエスは起き上がって風を叱り、湖に黙れ、静まれと言われた。すると風はやみ、すっかり凪になったとあります。聖書では「荒れた海」は「神の怒り」を象徴しています。旧約聖書のヨナ書にヨナは荒れた海に捨てられた時、神の怒りがやわらげられ凪になったとあります。ヨナが海の中で魚の腹の中に3日間いたということは、神の怒りを身代わりに受けたイエスが十字架の死の後、三日間、「陰府(よみ)」にいたことを指し示しています。

 主イエス・キリストは私たちの罪の故に十字架につけられ、神の怒りを受けられた。その主が私たちを永遠の滅びへと沈める罪と死と悪の力に「黙れ、静まれ」と叱りつけられた。すると、嵐は静まりました。この奇跡は自然の支配者キリストト罪と死と悪の力によって荒れ狂うこの世の海を支配し給うキリストを意味しています。ここに私たちの救い主キリストの主権、創造者なる神の主権があります。

 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と弟子たちを叱りました。「まだ、信じないのか」 主イエスは弟子たちの中に、まだ信仰が見えていない、信仰がないから怖がったのだ。この信仰とは何でしょうか。主イエスがこの舟に一緒におられるのに、おられないかのように、あわてふためいていたということであります。主イエスはここで私どものこのような信仰のありようを指摘しているのです。

 この物語が教えているものは、神と共にある信仰の平安を人生の嵐の時にも失わないということであります。

 人生の嵐の時、神の力がすぐに分からなくても、主は共におられる。そして主イエス・キリストにより頼む者に必ず、働きかけてくださることを信じる者でありたいと願う者であります。

 主イエスを信頼し、主に従っている中で起こる現実の問題の中で主に訴える者でありたいと思います。私たちが持つことを許されている信仰は、突風と荒れ狂う海を叱りとばして「黙れ、静まれ」と言って嵐を静めてくださる主イエス・キリストに対する信仰であります。この信仰を持ち続けなさいと、今朝のみ言葉は教えているのではないでしょうか。

最後に41節のみ言葉であります。「弟子たちは非常に恐れて「いったいこの方はどなたなのだろう」嵐や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

嵐を静める奇跡物語が指し示すのは「主イエスとは誰か」ということであります。この方は、いったい誰なのか。私どもは今朝のみ言葉から弟子たちと同じように改めて問わなければなりません。

 私はある日本の神学校で教えている聖書学者の話を聞いたことがあります。聖書に関する知識豊かなその先生が年をとり、ご自分の死を身近に感じるようになった時、同じ学者仲間の牧師に「イエス・キリストの救いは本当ですか」と尋ね「そうですよ」と答えると「そうですね」と言って帰って行かれたというのです。

 39節に「イエスは起き上がって」とあります。主イエスはやがて死の眠りから起き上がって甦られます。弟子たちは復活の主の姿に出会った時、「この方はどなただろう」とは言わなくなります。

 嵐を静めた主は起き上がって、異邦の地で伝道を始めます。そして主は「イエスは誰か」と語り続けます。主イエスは今朝もあなたを訪ねあなたの心の扉を叩き続けられております。

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