主イエスのまなざし

09.7.12

飯沢忠牧師

(田園調布教会協力牧師)

マタイ161323 ペトロ信仰を言い表す

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えた。するとイエスはお答えになった。「シモン・パルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力をこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でも解かれる。それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。イエス死と復活を予告する。このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活されることになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 今朝はペトロの生涯を通してみ言葉に聴きたいと思います。人間は不完全な者で弱い存在であります。ペトロは初代教会の指導者「大使徒ペトロ」と呼ばれるに至った、いわば12使徒の第一人者といえる人物であります。ペトロについては多くの方がおき、ご存知のようにガリラヤ湖で漁をする漁師でした。マルコ1:16〜18に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」とあります

ようにイエスの呼びかけに応えて、「すぐに」網を捨ててイエスに従いました。彼はこのとき、イエスのことをどれだけ知っていたでしょうか。恐らく、イエスに従っていく中で、彼は本日の聖書(マタイ16:16)にあるようにイエスを「救い主」と理解し、「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰の告白に至ったと思われます。この信仰告白は初代教会の信仰の中心となり、教会のよって立つ唯一の立場となりました。この時、イエスは「シモン、バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしは言っておく。あなたはペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに抵抗できない」と仰せになりました。

 ペトロという人の上に教会を建てるのではなく、ペトロの信仰告白の上に教会を建てるということであります。ペトロは天国の鍵を授けられて、神の権威の継承者という立場を与えられました。しかし、このとき彼はまだイエスの言葉の意味を十分に理解していなかったのではないでしょうか。イエスはそのことをご存知だったと思われます。20節「イエスは御自分がメシアであることをだれにも話さないように」と命じましたが、このことは正しく理解され伝わらないことを知っておられたからだと思います。21節に「このときから、イエスは御自分が必ずエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると弟子たちに打ち明け始められた」とあります。「するとペトロはイエスをわきへ連れていっていさめはじめました」。23節に「サタンよ、引き下がれ、あなたはわたしを邪魔する者、神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱ります。このようにペトロはイエスの話されたことを十分に理解できていなかったのです。

 1916節以下には金持ちの青年が、イエスに「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしようか」と質問しています。イエスは「命を守りたいなら、十戒の掟を守りなさい」と教えます。青年は「そういうことはみな守ってきました。まだ欠けているでしょうか」と尋ねますと「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それからわたしに従いなさい」と仰せになります。青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った」とあります。イエスが弟子たちに「金持ちが天の国に入るのは難しい」と言われると、弟子たちは非常に驚き「それではだれが救われるだろうか」と言ったとあります。するとペトロは「このとおり、わたしは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。ではわたしたちは何をいただけるのでしょうか」と言うのです。

主イエスのご生涯の終わりが近づいた時、ペトロはさらに重大な弱さを表します。十字架の死が近づいた時、イエスの苦悩は頂点に達するのです。ペトロは事の次第を知って「あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と誓います。この後、イエスはゲッセマの園で悲しみもだえて祈ります。弟子たちはイエスの近くで何度も眠ってしまいました。主イエスの悲しみ、苦しみは人間の想像を超えたものであるました。弟子たちはイエスの苦しみを理解せず、肉体の疲れに勝てなかった。イエスは彼らの姿を見て、「誘惑に陥らないよう目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われました。イエスは彼らのすべてをご存知でした。イエスが捕らわれた時、「弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げてしまった」とあります。(マタイ2656

けれどもペトロには主イエスが捕らえられ裁判を受ける様子を見ようとついていきます。ペトロは主エスが裁きを受けている大祭司の庭で三度も「イエスを知らない」と言いました。私たちはこのペトロの立場にいたなら、どうであったでしょうか。恐らくペトロよりもっと卑怯な態度でイエスから離れて行ったかも知れません。四つの福音書はこのことを記しています。特にルカによる福音書(2216)では突然鶏が鳴いた時の「主は振り向いてペトロを見つめられた」とあります。このときの主のまなざしはどのようなまなざしであったのでしょうか。

悲しみと哀れみと慈愛のまなざしを注がれたのではないでしょうか。マタイによる福音書(2675)のこの箇所では鶏が鳴いた時ペトロは、イエスの言葉を思い出し、外へ出て激しく泣いたとあります。

ペトロはこの後も大切なことを経験します。ヨハネによる福音書(211517)を見ますと、それは主イエスが復活され、ガリラヤ湖畔で主と共に朝の食事をした時のことです。「食事が終わるとイエスはシモン・ペトロに「ヨハネの子、シモンこの人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。主が捕らえられる直前にペトロは「あなたのためなら命を捨てます」と言い切った男です。主を裏切ってひどい落ち込みの中にあって、ペトロはどうすればこの挫折感から立ち直れるのでしょうか。

このような中にあるペトロに主はただ「わたしを愛しているか」と問うだけでした。主はただ「わたしを愛しているか」と問うだけでした。主は裏切り者のペトロをもはや信頼できない者として裁き、彼を退けることをなさいませんでした。真実な愛とはパウロが語っているように「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」のであります。主は「わたしを愛しているか」と三度繰り返されます。イエスが三度「わたしを愛しているか」と言われたことでペトロは「悲しくなった」とあります。主は深い洞察力をもってペトロの全てを見通しておられる「まなざし」に「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることをあなたはよく知っておられます」ペトロはもはや以前のように熱心さだけで答えることはできませんでした。

ペトロは主から三度「わたしを愛するか」と質問を受けてから、ふと自分の隣にいるヨハネを見て「この人はどうなるのでしようか」と尋ねます。すると主イエスは「あなたに何の関係があるのか。あなたはわたしに従いなさい」と言われます。これはペトロだけでなく、私たちの姿ではないでしようか。私たちも自らの欠けるを覚えつつも他の人の姿が気になるのです。

弱さの故に、破れを繰り返しつつも主はそのペトロを用いられました。主はペトロが心は熱していても弱い人間であることを知った上で、彼に天国の鍵を託されました。それは天の父の御心であります。人間がよくできているから主に用いられるのではありません。失敗し躓きながらも必死で主に従う中に聖霊が助jけ主として働いてくださるのです。

自分と他人、隣人の不完全さが私たちの心を暗くすることがあります。人間的な努力で問題を克服できる場合もあります。しかし、人間のもつ罪の故に数多くの問題が起こってくるのであります。

その罪をすべて主イエスが十字架でご自分の身に受けて死んでくださったのです。その神様の愛を見る時、私たちは審きではなく、主イエスの愛と赦しを覚え、それによって問題の解決をはかりたいのであります。「主イエスならどうなさるのか」。これが私たちの指針であります。

「愛さえあれば」という本を書いた人がいます。主イエスは弱くもろい弟子たちに、愛の導きをし、そしてその弟子たちに聖霊を与え、「復音を宣べ伝えよ」と命じられたのであります。

 復活のイエス主イエスはペトロに新しい使命を与えています。「わたしの羊の世話をしなさい」。主が愛してやまない多くの滅びゆく人々の世話をしなさい。迷える羊を探して、救い出すのはいつも罪人の頭です」と言っています。パウロは「わたしは罪人の頭です」と言っています。

 多く赦された者は、多く愛するのです。悔い改めた罪人が同時に、神の恵みの承認となるのです。ペトロが同じことが私たちにも起こります。ペトロの手紙148には「何よりもまず心をこめて愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」と述べています。ここにペトロの信仰の大きな成長を見ます。愛の復活を見ます。ペトロはペンテコステの日に聖霊を受けて変えられました。そのことが使徒言行録214節以下にペトロの説教として記されています。

 「するとペトロは11人と共に立って、声を張り上げ、ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たちに知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。あなたがたは十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。神はイエスをメシア、私たちの救い主となさったのです。

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言い、ペトロは「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と導きます。

 聖書は「この日、3000人ほどが仲間に加わった」と記しています。

 古い教会の伝説によれば、ペトロはローマで殉教する時、主と同じ形で十字架につくことはできないと言って主と同じ形で十字架につくことはできないと言って、逆さはりつけを願い、殉教したと言い伝えられています。

 私たちは過ぐる日、ペンテコステを迎えました。ペトロと同じように弱さと不完全さをもった者ですが聖霊の力をいただいて、ひたすら伝道の業に心を一つにして励みたいと願います。

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