聖家族 マタイ1:18〜25 イエス・キリストの誕生

06.12.10

飯沢 忠牧師

ヨセフは誰にも言えない悩みと疑いの中にあって、マリアへの憎しみさえもつことがあったことでしょう。彼はそのような苦しみの中で、神の前に生きなければなりませんでした。 一方、マリアの澄んだ眼は、はっきりと姦淫の罪を犯していないことを語っていたことでしょう。ルカによる福音書をみますと、マリアは聖霊によって神のみ子を身ごもったことをみ使いから知らされたとき、「御言葉どおり、この身になりますように」と告白しています。

 この信仰告白は、マリアが神さまの働きのために己が身を神さまに明け渡し、その結果、たとえ愛するヨセフに捨てられ、また姦淫の罪の故に石打の刑で殺されることをも覚悟したのです。マリアは自分の生命を賭けて神さまの御心に従ったのです。 しかしこのマタイによる福音書では、マリアはただ沈黙しています。歌うべき言葉さえ奪われたかの如く、自分の身に起こった大変なことに対して一言の弁明や釈明もしていません。沈黙にまさる深い苦悩に満ちた祈りはありません。マリアはひたすらみ子の誕生を待ち望み、苦悩に耐えていたのです。マリアの姿から美しいものが漂っていたことでありましょう。

 さて、ヨセフの「正しい人」というのは、果たして本当の正しさであったのでしょうか。

ヨセフの正しさは行詰まるのです。人間の正しさは、時には人を滅ぼしてしまいます。その正しさの中に罪を含んでいるからです。清らかな瞳をもつ身重のマリアを前にして、ヨセフは思いめぐらし葛藤し迷うのです。マリアを離縁する正しさとは一体、何なのでしょうか。ヨセフは神の律法の本来の正しさを理解していなかったのであります。このとき、ヨセフは夢の中で神のみ使いの声を聞きます。「恐れず妻マリアを迎えいれなさい」ヨセフはマリアから生まれる神のみ子を自分の子として迎えてほしいと神様から頼まれるのです。
 私たちは2週間後にクリスマスを迎えます。喜ばしいクリスマスの背後にはヨセフの深い苦悩とマリアの悲しみがあったことを見逃しにしてはなりません。ヨセフはマリアと結婚することが決まっていました。彼は貧しいけれど暖かい家庭を夢見ていたことでしょう。ところがヨセフに突然、先が真っ暗になるようなことがおこったのです。それはマリアがヨセフと肉体関係をもっていないのに妊娠したからであります。ヨセフはこのことを知ったとき、思いたくもないマリアの姦淫罪を考えざるを得ませんでした。ヨセフのマリアへの疑惑はどんなに彼を苦しめたことでしょう。もしマリアが姦淫の罪を犯していたなら、ユダヤの法廷で裁かれ石打の刑で殺されなければならなかったからであります。愛を誓い合ったマリアをどうしてそんな目に合わせることができるでしょうか。
1章19節に「ヨセフは正しい人であった」とあります。彼は姦淫の罪に対する戒めとマリアへの愛との板ばさみになり、幾晩も眠れぬ夜を過ごしたことでしょう。ヨセフの考えに考えた結論は19節にあるように「表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」でありました。もしマリアが大きなお腹をかかえて、法廷に立たせられたとするならば、多くの人々から「姦淫の罪を犯した女だ」と辱められることになります。ヨセフはマリアにそんなことをさせられませんでした。ここにヨセフのマリアに対する深い思いやりと愛があります。ヨセフはマリアとの縁を切ることによって「ヨセフはマリアを妊娠させて離縁するひどい男だ」といわれることを由としたのです。

私たちにもこれと似たようなことがよくあります。それは愛するが故に深く傷つくということです。私たちはヨセフの苦悩をとおしてクリスマスには、このような深い魂の悩みの中で起こったことを覚えなければなりません。
 関根正雄という聖書学者は「人間というものはどうしても人に知らせることができないものをもっている。人にも言えない、親にも言えない、先生にも言えず、自分一人で悩むことがあります。その悩みの中でしか神さまに会うことができない」と言っております。

 このように主イエスはヨセフの子として誕生するのです。マタイによる福音書(口語訳聖書)の系図の中で「ヤコブはマリアの夫ヨセフの父である」とはっきり書き記しています。

ヨセフは夢を見た朝、すべてを神への信頼の中で受け取る決心をしました。ここにヨセフの男らしい勇気と決断を見ます。ヨセフは極めて意義深くクリスマスに関わった人です。この後、ヨセフはマリアと幼子イエスを連れて、ヘロデの軍隊を逃れエジプトに向かって砂漠の厳しい旅に出かけます。ヨセフは神さまから「マリアと主イエスを守ってくれ」と頼まれたからです。

神さまは私たちにもヨセフのようなことを求めておられます。聖書を見ると、ヨセフはクリスマスのためにのみあった人であることが分かります。伝説によるとヨセフは早死にしたといわれています。

主イエスが12歳になったとき、ヨセフとマリアは主イエスを神殿に連れていったと聖書に記されています。その後、ヨセフの消息を聖書に見ることはできません。彼はそれで充分であったのです。

マリアとヨセフの中に生まれた主イエスは、「神われらと共にいます」「インマヌエルの神」です。

クリスマスを最初に祝った人は、羊飼いでもなく、博士たちでもなく、マリアとヨセフでした。「神われらと共にいます」 このみ言を信頼するところにマリアとヨセフの出会いがありました。マリアは重い神様の選びに応えるために、どんなにヨセフの支えを感謝したことでしょう。ここにキリストとともにある神の家族の原型を見ます。彼はこのようにして神の救いの歴史の開幕に備えたのです。 私たちにもマリアとヨセフのように苦しみがあり、悲しみがあり、思い煩いもあります。そのような私たちに、神さまがマリアとヨセフに語りかけたように「心配するな」「神われらと共にいます」とみ声をかけてくださるのです。

  救い主のめでたき訪れを今朝の聖書は、私たちに告げています。この主のみ言に信頼する者に「神はわれらと共に」いてくださるのです。  悩んでいる私たちに神さまは、最善の道へと導いてくださるのです。

この喜びと信仰をもって主のご降誕を心から喜び、祝いたいと願う者であります。

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