主の名を伝える器

 

 井本 克二牧師
(日本基督教団)

「すると主は(アナニヤに)言われた。行け。あの者は、異邦人や王たち、またイエラエルの子らに私の名を伝えるために私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなければならないかを、私は彼に示そう。」  (使徒言行録9章1016節)

         招きの言葉     イザヤ書52章7〜10節

         讃美歌234番A 「昔主イエスの蒔きたまいし」

 (1)神に用いられる嬉しさと恐ろしさ

私たちキリスト者にとって、神さまに用いられるということは大変嬉しいことです。けれども恐ろしいことは、「神さまに用いられる」といっても二通りの種類があるということです。たとえば使徒ペトロのように初代キリスト教会の大切な一つの柱として用いられる場合もあれば、イスカリオテのユダのように主イエス・キリストを十字架につけるきっかけとして用いられる場合もあるのです。事実、最後の晩餐の席でイエスさまは、「人の子は聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切るその者(イスカリオテのユダ)は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(マタイによる福音書26章24節)と語っておられます。

また私の青年時代にいつも心に響いていた口語訳聖書テモテへの第二の手紙2章20〜21節には次のように書かれています。「大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいこと(新共同訳では「普通のこと」)に用いられる。もし人が卑しいものを取り去って(新共同訳では、「今述べた諸悪から」)自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる」。そしてその時の私は、「ぜひ自分は尊いことに用いられる者となりたい」と思ったことでした。

(2)ユダヤ教徒サウロに復活のイエスの声が聞こえる
ユダヤ教徒からキリスト教徒に回心する前の使徒パウロ(つまりサウロ)は、使徒言行録第9章によれば、「主の弟子たちを脅迫し殺そうと意気込んで」ダマスコを目指して進んでいました。サウロはその前の第7章に書かれているように、ステファノがユダヤ教徒から石を投げつけられて殺されたとき、彼らの上着を預かっていた青年でした。多分、彼は若いながら彼らの黒幕として人々を扇動していたのでしょう。しかしダマスコに向かう途中で、「突然、天からの光が彼(サウロ)の周りを照らした」のです。そして、ヘブライ語で「サウル、サウル、なぜ私を迫害するか」 と呼びかける声を聞きます。そこで彼は、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「私はあなたが迫害しているイエスである」と告げられたのでした。これはたいへん不思議な現象です。なぜならイエス・キリストは十字架につけられて死に、三日目に復活して40日間、何度も弟子たちにご自分の姿を現した後、天に昇られたはずです。その時から数えてもかなりの日数が経っており、常識的に考えれば、地上ではなく天上におられなければなりません。そのイエス・キリストの声が聞こえたというのですから不思議です。

(3)ダマスコのアナニヤがサウロのもとに派遣される

使徒言行録第9章は10節から場面が変わり、ダマスコ市内に住んでいるアナニヤという弟子の話となります。彼は幻の中で主イエス・キリストから呼びかけられ、「ユダの家で、サウロというタルソス出身の者があなたを待っている」言われます。しかしアナニヤは、サウロがキリスト者を迫害してきたという悪い情報を知っていたので、当然のことながら訪問することを躊躇します。そこで主は更にアナニヤを説得して次のように語ります。「さあ、行きなさい。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにの名を伝えるために私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなければならないかを、私は彼に示そう。」そこでアナニヤは「直線通り」にあるユダの家へ行き、目が見えなくなっているサウロと会って彼の上に手を置いて祈ると、サウロの目からうろこのようなものが落ちて彼は元どおり見えるようになったのでした。(今でも一般の人々が時々使う「目からうろこが落ちるような経験をした」という表現は、この使徒言行録に由来する言葉です。)

(4)サウロのユダヤ教がキリスト教に変わる劇的瞬間

さて、このようなサウロの体験を私たちはどのように理解したら良いのでしょうか。これは、サウロが信じていた旧約聖書以来のユダヤ教が、サウロの心の中で新しいキリスト教に変化した劇的な瞬間であったと思います。その発端は言うまでもなく主イエス・キリストです。主は、地上の生涯の中でユダヤ教を否定したわけではありませんが、律法つまり旧約聖書の中心メッセージを保持した上で自由にイキイキ生きることによって人々に自由に生きる喜びを伝えました。しかし、その分、伝統を重んじて律法主義の堅い殻に閉じこもっていたファリサイ派の人々の怒りを買ったのです。ステファノの演説を聞いて激怒した青年サウロもそのひとりでした。しかし、多分、サウロはステファノの演説の内容とその輝きに満ちた顔を見て、内心大いに動揺したのではなかったでしょうか。当初はステファノを石で撃ち殺すことに賛成したものの、その後のサウロの心の中には否定しようもない疑問が湧き上がり遂にダマスコ途上で復活のイエスの声を聞くことによってそれまでのファリサイ派としての信念が粉砕されてしまったと考えられます。

(5)自らを「異邦人の使徒」と考えたパウロ

しかしキリスト者パウロとなってからも、それまでとは異なった苦しみをかかえながら福音を語り続けなければなりませんでした。それは、主イエス・キリストの福音がただ単にイスラエル民族つまりユダヤ人だけの福音ではなく、ギリシア人、ローマ人、さらにはスクテア人(コロサイ3:11紀元前1千年紀初に南西ロシアに侵入したイラン語を話すモンゴル系民族)など外国人のための福音であることが明らかになったからです。そこで彼は自らを「異邦人の使徒」(ガラテヤ2:7〜14、ローマ11:13、使徒言行録13:46、18:6)と考えましたが、それはなおのこと当時のユダヤ人キリスト者の理解を得ることの難しいことでした。先輩の使徒ペトロもパウロより早く、天からの声を聞いてローマの軍人コルネリウスの訪問を受けて以来、そのことを理解してはいましたが、後に、エルサレム教会から派遣された保守的な人々の目を恐れて異邦人から離れようとしたので、パウロから激しく非難されたことがガラテヤの信徒への手紙(2:11〜14)で次のように記されています。

「さて、ケファ(ペトロ)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、私は面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人がくるままでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして他のユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行ない、バルナバさえも彼らの見せかけの行ないに引きずり込まれてしまいました。しかし、私は彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながらユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」(新共同訳このところは口語訳聖書では、「彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって彼をなじった」とさえ翻訳されています。

(私なども教員時代にはかなり自分だけの判断で行動していましたから、校長や先輩・同僚から批判されてきました。「井本先生はもっと他の先生と一緒に仕事をしてください」。また中国旅行に行けば、とかく私は団体行動から離れがちでしたので、ガイドからマークされていました。「井本さんはいますね。それでは出発しまーす」という具合でした)。

(6)自由にのびのび生きることは生易しいことではない

自由が嫌いな人はまた「自由に振舞う人」を非難したり、嫉妬したりします。ですから「自由に生きる」ということは、そのような人々の非難に耐えなければなりませんし、批判に対しては決然と反論し、自由な生き方の大切さを理解させたり、自由に生きている人が非難されたときにはその人を弁護するという強い姿勢が必要なのです。パウロはまさしくそのように行動したのでした。だからといってすぐパウロは先輩のペトロやバルナバの理解を得られたようでもありません。むしろそのような生き方を貫いたため、生涯に亘って彼は苦しんだことがコリントの信徒への手紙二の第11章23〜29節に克明に記されています。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、(ローマ人から)鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたこと(石撃ちの刑というユダヤ社会における正式な死刑の方法)が一度、難船したことが三度、一昼夜、海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。その上に、日々私に迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。誰かが弱っているなら、私は弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまずくなら、私が心を燃やさないでいられるでしょうか」。

このように使徒パウロは自分の口で語っています。まさしく主がアナニヤに対して、あらかじめ「私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、私は彼に示そう」(9:16)と語ったとおりの生涯をおくったのでした。
 ユダヤ教徒のときのサウロという彼の名前は、ヘブライ語で「選ばれた者」という意味でしたが、キリスト教徒になってから彼は「パウロ」と改名しました。それはラテン語で「小さい者」という意味です。誇り高い彼が、どれほど謙虚になったかを示す名前だと思います。私たちはとてもパウロのようにはなれませんが、及ばずながらも「主イエス・キリストの名を伝える者」とならなければなりません。ある人は金の器になれるかもしれませんし、ある人は銀の器、木の器、土の器かもしれませんが、それでも良いのです。中に入れるものは同じ「主イエス・キリストの福音」なのですから。そのこともまた使徒パウロはコリントの信徒への手紙二、第4章7〜11節で次のように美しく語っています。

「ところで私たちは、このような宝を土の器に納めています。このなみはずれて偉大な力が神のものであって私たちから出たものでないことが明らかになるために。(また) 私たちは四方からくるしめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちはいつもイエスの死を体にまとっています(が、それは)、イエスの命がこの体に現れるために(です)。(また)私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。(それは)死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるためです」。

 私たちもまた基本的には「土の器」であっても自分はキリスト者であるとの誇りを忘れずに日々を歩み続け、パウロと同様そのような者とされたことを感謝したいと思います。(完)

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