神は年老いた二人に目を留め


 
  
井本 克二牧師・日本基督教団牧師
2005年12月18日(日)
 
「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかしエリサベトは不妊の女だったので彼らには子どもがなく、二人とも既に年をとっていた。」 ルカによる福音書1章5〜7節                                                            聖書朗読個所  ルカによる福音書1章5〜25節
  招きの言葉  イザヤ書46章3〜4節讃美歌  114番 「天なる神には御栄えあれ」

(1) 教会の暦では今日はアドベント(待降節)第4主日であるということで、アドベント・クランツの4本目の蝋燭に火が点りました。私たちはこの季節に改めて2000年昔、主イエス・キリストが神から遣わされた恵みに感謝したいと思います。 クリスマスの物語は福音書の中では少し特異な位置づけがなされます。マタイによる福音書では、ヨセフに天使が現れてイエスの誕生を告げる場面や、東方の博士たちがやってきてイエスを礼拝する場面があり、またルカによる福音書では、祭司ザカリアやマリアに天使が現れる場面が美しく描かれていますが、なぜかマルコによる福音書やヨハネによる福音書にはそのようなクリスマス物語は出てきません。また数多くある使徒パウロの手紙でも全く語られません。たいへん不思議なことです。ですから教派によってはクリスマスの行事をあまり重視しない教会もあります。

(2) 私が育った日本ホーリネス教団の東京聖書学院教会(現在の東京中央教)でも、当時の年配の主任牧師はにぎやかなクリスマス礼拝を好まず、いつでしたか私たち青年会がクリスマス劇(ページェント)を計画したところ「待った」がかかり、プログラムを大幅に修正しなければならなくなったことがありました。私自身、キャンドル・サービス(燭火礼拝)とかキャロリング(クリスマスの讃美歌を歌いながら家々を回る行事)を体験したのは明治学院大学に入学してから、ないし日本キリスト教団行人坂教会に赴任してからのことでした。また教会の中にはクリスマス礼拝やイースター礼拝をしないところ(上野原キリストの教会など)もあります。

変わった体験としましては、私が長年勤務した平和学園で、ある年、優秀な生徒に「東方の三人の博士」のひとりになってもらおうとしたところ、「物見の塔」の信者である母親から「それは困る」とクレームがつきました。「まぶねのなかにある幼子イエスの人形を拝むことは偶像礼拝になるので、私の子どもにはさせないでください」というわけです。

 日本キリスト教団の牧師の中には、クリスマスの歴史性に疑問を持つ人が少なくありません。「羊飼いが夜、野宿をして羊の群れの番をすることは12月のパレスチナでは寒すぎてできないから、キリストの誕生は12月ではないはずだ。したがってクリスマスには歴史的な根拠はない。」と断定する学者も多いようです。

 クリスマスの歴史を調べてみますと、紀元3世紀ギリシアの正統派神学者アレキサンドリアのクレメンスがイエス・キリストの誕生日を5月20日と推測しています。歴史的な事実としては、多分その頃であると思われます。けれどもクリスマスすなわちイエス・キリストの誕生を12月25日に祝うようになったのはキリスト教会にとっては大きな宣教的な意味があったのです。
(3) クリスマスが12月25日に祝われたという最も古い記録は、紀元336年にローマで用いられた「フィロカルスの暦」にあります。当時のローマでは異教の行事として「太陽の誕生」と呼ばれる冬至のお祭りがありました。それに対抗するために「義の太陽」であるイエス・キリストの出現、そしてクリスマスを祝いました。こうして「12月25日のクリスマス」はローマから始まってローマ帝国内の西方教会に広まっていったのです。カトリック教会と

プロテスタント教会はどちらも「西方教会」と含まれますが、それとは異なる伝統を持つビザンチン帝国の「東方教会」(後のロシア正教など)では紀元3世紀から1月6日を「エピファニー(顕現日)」と呼んで祝うようになりましたが、クリスマスという教会の祝日はありませんでした。ところが4世紀以降、カトリック教会との交流が盛んとなってからは、東方教会も西方教会も1月6日のエピファニーと12月25日のクリスマスを両方とも祝うようになりました。

(4) いずれにしましてもクリスマスは、古来、世界のキリスト教会で愛され親しまれ、いろいろな国々、いろいろな民族の楽しい習慣が織り込まれています。そこにキリストの福音の包容力が現れているのではないでしょうか。
 クリスマス・ツリーは、「ドイツ人の使徒」と呼ばれる8世紀のベネディクトゥス会修道士(宣教師)ボニファティウス(イギリス出身でしたので本名はウィンフリート)が始めたとされます。『もう一人の博士アルタバン物語』で有名なヴァン・ダイク著『最初のクリスマス・ツリー』を読んでみてください。サンタクロースは3世紀の小アジアの聖ニコラウスが貧しい人々にこっそりプレゼントをしていたことが起源とされますが、クリスマスの行事としては独立前の17世紀アメリカのニュー・アムステルダム(現在のニューヨーク)に移住してきたオランダ人プロテスタントが始めたものです。今ではノルウェーにサンタクロース本部があり、郵便を出すとクリスマス・カードが届くそうです。

 讃美歌264番の「清しこの夜」は19世紀のオーストリアの田舎の教会でパイプオルガンが壊れたとき、急遽、J.モール牧師の詩にオルガニストのF.グリューバーさんが作曲したものを、少年少女聖歌隊がギター伴奏で歌ったのが最初でした。

 私は30年前、香港の日本人教会に牧師として赴任しましたが、クリスマス・シーズンが近づいたので、アドベント・クランツを作ろうと思いました。近くの店に出かけていろいろなキャンドルを床の上に並べてデザインを考えていましたら、いつのまには西洋人が集まってきて、楽しい交わりのひと時となりました。香港のクリスマスはそれまで私が体験してきたアメリカ式とは少し異なりイギリス風で、ビルというビルが電飾で縁取られ、壁面には英語で、

Merry Christmas !」とか、中国語で「聖誕快楽」(シンタンファイロッ)と書かれた巨大な看板が飾られていました。

(5)さて本題に戻らなければなりませんが、今朝は特に祭司ザカリアの姿を通して、「期待しない罪」について考えてみたいと思います。当初、少年は親などの大人に期待されて成長し、やがて青年になるとむしろ大人の期待に反発しながら成長していきます。ところが大人は、大人になるまでに何度も期待を裏切られ、大人になってからは期待に応えられない自分の非力さを思い知らされるという苦い経験を通じて、いつのまにかあまり期待するということをしなくなるもののようで、祭司ザカリアもその一人でありました。ルカによる福音書1章において祭司ザカリアが、エルサレムの神殿で執務中に天使を見て、「不安になり、恐怖の念に襲われた」のは、祭司という立場にありながら神さまの臨在を全く予想していなかったのではないかと思わされます。つまり神さまの御用をしているのに神さまのことを忘れていたということになります。そして実はそうしたザカリアの姿こそが、他ならぬ私たちキリスト者の実態ではないかとも思うのです。

(6)ザカリアは祭司といっても、神殿あるいは近くの官邸に住む身分の高い大祭司一族ではなく、当番のたびに山里(1章39節)のユダの町から通勤する下級祭司でありました。有名なたとえ話に「良きサマリアびと」(10章25〜37節)がありますが、半死半生で倒れている同胞を見てみぬふりをして通り過ぎた祭司やレビびとは、多分そのような下級祭司の通勤途上の出来事であったわけです。ザカリアのような祭司は当時18,000人もおり、750人が一組となって、全部で24組が1週間交代で神殿に詰めていたそうです。しかも神殿の中で直接儀式を担当できるのは「祭司のしきたりによって」くじに当たった少人数の祭司だけでしたから、ザカリアにとってはめったにない幸運であり、晴れがましい一瞬であったに違いありません。しかしかんじんの神さまに対しては心がお留守であったようで、「天使が現れて香壇の右に立った」ときびっくりしてしまいました。つまり、神に仕える立場にありながら、神に仕える場において、神が無視されているという驚くべき現実がそこにあったの

です。これこそ「期待しない罪」でありました。 しかし考えようによってはザカリアは、くじに当たった上に天使を目の当たり見るという光栄にあずかったのですから、後になって思い出せば思い出すほど、嬉しくて嬉しくてたまらなかったのではないでしょうか。しかも「期待しない罪」に対する罰として子どもが生まれるまでの10か月間、口がきけなくなりましたが、心の中では笑えて笑えて仕方がなかったと思います。実にこうしたところに、とかく深刻になりがちな私たち対して示される「神の国のユーモア」があり、愚かな信仰者である私たちに対する神さまのあわれみがあるのではないでしょうか。

 妻のエリサベトは気の毒なことに、「不妊の女」とか「生まずめ(女)」というひどい言葉で呼ばれていますが、現代医学からすれば、妻ではなく夫に問題があることも十分考えられます。いずれにせよ「ふたりとも既に年をとっていて」子どもがない生活はさびしいものであったでしょうが、突然、子どもに恵まれて、どんなに嬉しかったことでしょう。

(7)このようにクリスマスの物語では、当時の社会からは忘れ去られそうな弱い人々、つまり老祭司夫妻(ザカリアとエリサベト)やナザレ村の娘(マリア)、神殿に入り浸る老人(シメオン)や老婆(アンナ)などが次々と登場しますが、それは光と闇とが交差していかにもクリスマスらしい情景を構成していると思います。これらルカによる福音書1〜2章は、多分マリアによって記憶されていた出来事がエルサレム教会の伝承として語り継がれ、やがて聖書記者ルカによって文章化されたものと考えられます。なぜなら、受胎告知のとき「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(1章29節)とあり、救い主の誕生を聞いて羊飼いたちが駆けつけた時も、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2章19節)、また12歳のイエスがエルサレムの神殿でおかしな行動をとり、わけの分からない言葉を語った時にも、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(2章51節)とルカは記しているからです。

(8)私が住む山梨県の上野原市も田舎町ですから都会以上に高齢化が進んで(8)私が住む山梨県の上野原市も田舎町ですから都会以上に高齢化が進んでおり、私も来年から「高齢者」(65歳以上)となります。私は昨年12月から3年任期で島田地区東区担当の民生委員となっていますが、これを機会に少し具体的な活動を知っていただきたいと思います。私が担当します東区は全部で180世帯あります。そのうち、具体的には、毎月定期的に家庭訪問するのは20世帯ほどで、そのうち準保護世帯2世帯、要援護世帯(寝たきりの人、一人暮らしの高齢者)は18世帯です。夏と冬には上野原市社会福祉協議会から「友愛訪問」と呼ばれる付け届けがあり、夏には梅干1かご、冬にはお餅一袋が支給されます。私の場合は先週の木曜日に午前中3時間、午後2時間かけてお餅は8世帯に、1万円を2世帯、3千円を10世帯にお渡しして来ました。そのうち4世帯にはお風呂のバス・マットが追加されます。8地区では私が一番多く担当しております。特に東区は地域も広く、ばらばらで、しかも問のに多い家庭が多く、他の地区の民生委員からは「東区は大変ですね」と言われますが、やりがいのある地区です。 ある家庭は母親は新興宗教に凝って小学生・中学生・高校生など3人の子どもの世話をあまりせず、父親はお金を家庭に入れてくれません。私が毎回、家庭訪問しても玄関までごみがひどく散らかって顔をひそめたくなるありさまでした。昨年12月に民生委員となったとたん、中学校の校長先生から、「学費を滞納しているので督促してください」と頼まれたりしましたが、その後は離婚が成立して、社会福祉資金が借りられることになり、今月になって初めて母親が明るい応対をしてくれました。もうひとつの家庭は、数年前、母親が自殺し、昨年は父親が事故死して孤児となった兄と妹で、なかなかコミュニケーションがとれずにいましたが、先週初めてお兄さんと話をすることができました。このような家庭の問題を私は民生委員・児童委員協議会や市役所の福祉課、児童相談所などと相談しながら対処しています。

その私が一人暮らしの高齢者や老人二人だけの生活をしている70代、80代の方々の家を訪問するとき、数年後、十数年後の自分の姿がちらついて、とてもひとごとには思われず、できるだけ親身になってお世話したいと考えております。まして私たちクリスト者はすべてをご存知で、私たちを見守っていてくださる神さまを知っていますから、その喜びや安心を周囲の人々に伝えてまいりたいものです。   

TOPへ