常に共なる弁護者

井本克二牧師

ペンテコステ礼拝2005年5月15日

「私は父にお願いしょう。父は別の弁護者を遣わして永遠にあなたがたと一諸にいるようにしてくださる。」(ヨハネによる福音書14章16節)招きの言葉 ヘブライ人への手紙1章5〜9節

讃美歌500番「御霊なる聖き神」

(1)はじめに

 今は教会の暦の上でペンテコステ(聖霊降臨日)と呼ばれる日で、クリスマス(降誕日)、イースター(復活日)とならぶキリスト教会の最も重要な3つの祝祭日のひとつです。クリスマスが救い主であるイエス・キリストの誕生日であり、イースターは宗教としてのキリスト教会の誕生日であるということができます。普通、ペンテコステ礼拝では使徒言行録第2章が朗読されますが、私はロゴス教会において昨年6月から使徒言行録1章から学び始め、第2章は「様々な言葉を語る人々」と題して8月に既にお話しましたので今朝はヨハネによる福音書第14章からペンテコステの意味について考えてみたいとおもいます。

(2)キリスト教成立の特異性

仏教であれ、イスラム教であれ、多くの宗教は教祖という強烈な人格の持ち主の周りに大勢の弟子たちが集まって成立します。けれどもキリスト教の場合は少し違います。確かに最初はナザレのイエスという偉大なかたの周囲に多くの弟子たちが集まってスタートしました。けれどもその集団はイエス・キリストの十字架の死によって一旦ストップしてしまいました。仏教の場合もイスラム教の場合も、お釈迦様や予言者ムハンマド(マホメット)が亡くなった後、弟子たちはそのまま団結して後継者をえらび出し、確りした集団(仏教団、イスラム教集団)が成立しています。ところがキリスト教の場合は、イエスさまが十字架の上で

息を引き取られたとき、すべての弟子は「これで終わりだ」と感じてちりちりばらばらになっていきました。そのことが最もよく表現されているのがルカによる福音書24章19〜21節に記されたエマオの途上のふたりの弟子たちの会話の中です。気落ちしてエルサレムを離れる旅の途中で、次のように語っています。「ナザレのイエスは、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに私たちの祭司長たちや議員たちは死刑にするため引き渡して十字架につけてしまったのです。私たちはあの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」。

(3)弁護者としての聖霊が遣わされる予告

ヨハネによる福音書第14〜16章は十字架にかかる前夜、最後の晩餐における主イエス・キリストの「決別の説教」で、いわば遺言のようなものです。不安でいっぱいの弟子たちを前にして、14章1節で主は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい」と語りかけています。そして15節以下では、ご自分が世を去った後に「別の弁護者」を遣  わすから心配しないよう励ましています。「この方は真理の霊である。世はこの霊を見ようとも知ろうともしないので受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいるからである」(17節)。また「父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(26節)とも語られました。更に第15章26節では、「私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち父のもとから出る出る真理の霊が来るとき、その方が私について証をなさるはずである」とも言われています。これらの言葉は最後の晩餐当時の気落ちした弟子たちには理解できませんでしたが、ペンテコステ以後の特に迫害の時代のキリスト者にとって大きな励ましとなるものでした。

(4)  神さまの働きかけで再結集した弟子たち
マタイによる福音書26章56節によれば、イエス・キリストが夜

のゲッセマネの園で逮捕されると、「弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった」と書かれています。ヨハネによる福音書21章1〜3節では、絶望した何人かの弟子たちが故郷のガリラヤ地方に戻り、テイベリアス湖つまりガリラヤ湖で漁をしようとする姿が描かれています。そのときシモン・ペトロが、「私は漁に行く」と言うとトマス、ナタナエル、ヨハネ、ヤコブそして他の二人の弟子も「一諸に行こう」と言っています。これは、イエス。キリストという中心人物を失って何をしたら良いか分からずにいる虚無的な姿です。幹部12人の弟子のうち7人までがそのような有様でした。これは仏教やイスラム教とは全く異なる情けない状況で、そのままであれば、とてもキリスト教は成立しなかったのです。復活したイエス・キリストがその後、エルサレムやガリラヤなどいろいろな場所で弟子たちに現れてようやく弟子集団は再結集して立ち直ることができたのです。

コリントの信徒への手紙一、第15章5〜8節に記されているように、「キリストは復活してケファ(ペトロ)に現れ、その後12人に現れ、次いで500人以上もの兄弟たちに同時に現れ、ヤコブ(イエスの弟)に現れ、その後すべての使徒に現れ、最後には月足らずで生まれたような私(パウロ)にも」現れました。つまりキリスト教は、他の宗教とは異なり、弟子たちつまり後継者たちが相談して成立した宗教ではなく、復活という超自然的な神さまからの働きかけがあって初めて成立した宗教だったのです。
(4)  聖霊を与えられた人々

使徒言行録第2章1〜13節を読むとき、組織・団体としてのキリスト教会は誰か強力な後継者がいて設立されたわけではありません。ペンテコステ(聖霊降臨日)になって、突然、超自然的な現象が生じて騒然となったなかでキリスト教会は、いわば自然発生的にスタートしたのでした。念のため1〜4節を読んでみましょう。「五旬節(ペンテコステ)の日が来て、一同がひとつになって集まっていると、突然、激しい風が葺いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っている家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分か

れに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、“霊”が語るままに、他の国々の言葉で話し出した。」

聖霊を待ち望んでそれを受けるということは、2000年経った今でも私たちが心に留めなければならないことです。私たちは常に神さまからの働きかけを待つ必要があるからです。

もちろん働きかけがあるまで何もしないでいるということではなく、「いま神さまは私たちに何を期待しておられるのだろうか」と常に考えていることが大切です。そして何かが始まったなら、また何事かを始めたならば、まずそのことを神さまの御心と信じてやってみるのです。皆さんの所属するロゴス教会でも教会総会は終わり、そこで協議され計画されたことを神さまの御心と信じて新年度を始めておられると思います。ヨハネによる福音書第20章によれば、自分たちの尊敬する先生を失って途方にくれている弟子たちの前に主イエス・キリストは突然現れ、「聖霊を受けなさい」と語られました。どうぞ、皆さんも新しく聖霊を受けてください。使徒言行録第2章では120人ほどの弟子たちが聖霊に満たされました。10章44〜46節を見ますと、異邦人(外国人)にも聖霊がくだったのでペトロ自身がびっくりしています。「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを聞いたからである。」ここでも人間の予想を超えたところで神ご自身(聖霊ご自身)が働いておられます。更に19章1〜7節を見ますと使徒パウロはエフェソ教会の人々に対して「あなた方は信仰に入ったときに聖霊をうけましたか」と尋ねています。ですから皆さんも信仰を告白したときに聖霊を受けているはずです。聖霊をうけたかどうかは、その実によって分かります。

(6)「聖霊の実」とはどのようなものか

そして「聖霊の実」が何であるかは、ガラテヤの信徒への手紙第5章22〜26節に書かれています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」。もちろん私も皆さんもここに書かれた「聖霊の実」がすべてあるとか、いつもあるとは言えません。

私たちは皆、弱い人間です。けれどもまた、ここに書かれた聖霊の実が何もないとか、ほとんどないというのであれば、大いに反省しなければなりませんし、改めて「聖霊を私に送ってください」と祈らなければなりません。

 キリスト教の中には、異言を語るとか預言をするという特別な体験をしなければ聖霊を受けたとは認められない、一人前のクリスチャンとは言えないとする特殊な教派がありますが、私はそうではないと思います。確かに使徒言行録2章では、不思議な現象が次々と起きていますが、それは特別な場合です。聖霊の働きはいつも何か激しい現象として現れるわけではありません。先ほどのガラテヤの信徒への手紙では、聖霊の実は静かに優しくゆっくり実るものとして列挙されていました。コリントの信徒への手紙一の12章には「霊的な賜物」つまり聖霊が私たちに与えてくださるものがどのようなものか詳しく書かれていますが、それはさまざまな人格的な能力と知恵として表現されているように思われます。

 「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益になるためです。
 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気を癒す力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言をする力、ある人には霊を見分ける力、ある人にはいろいろの異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらのすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって“霊”は望むままにそれを一人一人に分け与えてくださるのです。」(12章4〜11節)

(7)私自身の静かなペンテコステ経験

 私などはクリスチャン・ホームに生まれましたので、小学生の頃から日曜学校に行っていました。そして中学三年生の時、つまり1956年(昭和31年)に洗礼を受けていますから来年は受洗50年になりますが、初めのうちはクリスチャンであるという意識はなく、土曜の夜になると「ああ、明日は日曜だ。教会に行かなければ。」という形で自分がクリスチャンであることを思い出すだけでした。

ところが高校生になってしばらくたったある日、学校の休み時間に3階の廊下の窓から何気なく下のグランドを見ていて、ふと「自分はクリスチャンなんだ」という意識が生じました。それ以来、土曜の夜だけでなく、いつも自分はクリスチャンなんだという意識を持つようになりました。それが私にとっての静かなペンテコステだったのではないかと思っております。

 そもそも聖霊はクリスチャンにならなければ働きかけてくださらないのかといえば、そのようなことはありません。

 主イエス・キリストが弟子たちに向かって「あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選んだのだ」(ヨハネによる福音書15章16節)と語られましたが、私たちが選択することはすべて聖霊が働いた結果なのです。さらにまた聖霊は、私たちが悩み苦しむ時に私たちの傍らに寄り添って一緒に苦しみ、一緒に悲しみ、そして私たちを励まし慰めてくださる方なのです。

 「“霊”も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”みずからが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるかです。」ローマの信徒への手紙8章26節 このような方である聖霊が、いつも私たちのそばにいてくださるのですから、私たちは安心して人生を歩むことができるのです。そのことをいつも忘れないようにしましょう。

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