神が清めたもの  
  

井本克二・日本基督教団牧師    

             1120[]主日礼拝

翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかしペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」。すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。(使徒言行録10章9~16節)

 招詞 詩編32:1−5  讃美歌 262番「十字架のもとぞ」

(1)宗教改革者ルターの「悔い改めの詩篇」について

現代人である私たちは、自分の将来を心配したり、様々な家族問題で悩み、職場の問題で苦しんだりすることは多いのですが、かつてのように罪に悩んで苦しむことは少なくなったような気がします。宗教的な背景の強いアメリカやヨーロッパはどうなのでしょうか。以前見たことのある映画の中に、有名な俳優ロバート・デニーロが主演した『ミッション』という作品があります。それは何世紀か昔のカトリックの国に住む主人公が、兄弟げんかをしてかっとなり弟を殺害しまいますが、「自分は何という恐ろしいことをしてしまったのか」と悩んで修道院に入り、自分に罰を与えるため、未開地である南アメリカに向かう宣教師の一行に加わって苦しむ物語です。そこには刑務所に入れられても、どんなに鞭で打たれても、自分の罪を赦せない宗教的な人物として映像化されていました。私もかつては罪の意識に悩む宗教的な人間でした。そのころ旧約聖書の詩篇をよく読んでいましたが、その中には「悔い改めの詩篇」と呼ばれる詩篇が沢山あります。その一つ詩篇第32篇1〜5節を、その頃の私が使っていました文語訳聖書で読んで見ましょう。

その愆(とが)を赦され、その罪を覆はれし者は福(さいはひ)なり。

不義をエホバに負はせられざる者、心に偽りなきはさいはひなり。

我言ひあらはさざりしときは、終日(ひねもす)悲しみ叫びたるが故に、我が骨ふるび衰へたり。

汝の御手は夜も晝(ひる)も我が上にありて重し。

我が身の潤沢(うるほひ)は変りて夏の旱(ひでり)のごとくなれり。セラ

かくて我なんぢの御前に我が罪をあらはし、我が不義をおほはざりき。

我言へらく、我が愆をエホバに言ひあらはさんと。

かかる時しも汝我が罪の邪曲(よこしま)を赦したまへり。セラ

 この詩篇は、今から3000年ほど昔、旧約聖書に出てくるイスラエル王国第2代国王となったダビデの作と言われていますが、他の王に勝って神に忠実であったかれですが、生涯に大きな罪を何度か犯しています。彼の偉いところは、罪を指摘されると心から悔い改めることでした。また宗教改革者ルターも「義人は信仰によって生きる」というプロテスタント信仰の核心をつかむまで、難行苦行しました。そしてダビデが沢山書いた「悔い改めの詩篇」を綿密に研究して、自らの信仰を確認しました。

 東京神学大学に入学した私は、ドイツ語教授の井上良雄先生から「ルターの悔い改め詩篇注解書」を学んだのです。明治学院大学では英語と中国語は学びましたが、ドイツ語は履修したことがなく全くの独習でしたので語学力が足りず、それはそれは苦労しました。けれども、学ぶにつれてルターも罪に悩んだ人だったのだなあと理解することができました。

(2)未だに宗教に依存するアメリカや日本の政治団体

中世のローマ・カトリック教会もそうでしたが、現代の新興宗教も、人々のそうした罪の意識を悪用して、多額の献金・寄付金を集めて自らの権力・支配力・政治力を維持しています。アメリカ合衆国では大統領選挙で、戦争好きのブッシュ大統領が再選されましたが、その背後では、アメリカの保守的キリスト教団体が巨額な政治資金と集票力を提供して、政治を動かしてきた現実を、昨年のテレビ番組で紹介していました。日本では公明党も母体で

 ある創価学会からかなり距離を取るようになりましたが、自民党や民主党であっても、仏教系の大教派の政治資金や集票組織に依存してその勢力を維持しています。

 私が山梨県に転居してまもなく、近所の中年男性(渡辺彰兄)から、『日本時事評論』という山口県で毎月2回発行されるかなり右翼的傾向の新聞をもらうようになりました。彼はその新聞を熱心に配布してきたらしく、彼と一緒にどこへ行っても彼の顔は知られていました。その彼が昨年10月に、「韮崎市で開かれる新生仏教教団の講演会に行きませんか」、と言うので、仏教もある程度勉強したことがあり関心もある私はその集会に行く気になりました。ところが念のためインターネットで調べて驚きました。そこには自民党出身の石原慎太郎東京都知事や民社党の前代表の菅 直人さんなど、そうそうたる政治家の名前があり、同じ仏教団体ですが創価学会とは対立する勢力の一つであることが分かりました。私は現代の仏教がどのようなことを教えているのか、どのように語っているのか、には興味がありましたが、政治家には興味がありませんでしたし、まして投票などを強制されたら嫌でしたので、急遽、出席を断りましたが、政治家の影響力はすごいものだなあと実感しました。それにしても私たちキリスト教会は政治団体と結びつく必要はありませんが、心に悩みを持つ人々にもっと接近して、それらの方々に喜びの福音を伝える努力と工夫が必要であると思います。しかし現状は、日本の多くの教会は、教派を問わず、どちらかと言えば、知的教養や芸術的関心を持つ人々に対してのみ目を向ける傾向にしあるような気がして残念です。

(3)東京渋谷のイスラム教寺院「東京ジャーミー」を見学しました

さて使徒言行録第10〜11章には、ローマ軍の百人隊長コルネリウスが使徒ペトロの仲介で、キリスト教会に受け入れられたことが記されています。先ほど司会者に読んでいただいた個所の前の部分である10章1〜8節も少し読んでみましょう。

さてカイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で信仰心篤く、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、 絶えず神に祈っていた。ある日の午後3時ころ、コルネリウスは、神の天使が入ってきて「コルネリウス」と呼びかけるのを幻ではっきりと見た。彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると天使は言った。「あなたの祈りと施しは神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は革なめし職人シモンという人の客となっている。シモンの家は海岸にある」。天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心の篤い一人の兵士とを呼び、すべてのことを話してヤッファに送った。この段階ではローマ人であるコルネリウスと彼の召し使いや兵士は、「神を畏れている」とか「信仰心が篤い」と書かれていますから、まだキリスト教徒ではなくユダヤ教徒であったと考えられます。しかし、昔も今も、キリスト教に関心がある人々を見つけて伝道することを受けるものです。そしてそのとき思いがけない事実を知りました。それはパレスチナ地方において、イスラム教の「神」も、キリスト教の「神」も、ユダヤ教の「神」も、みなアラブ語では「アッラー」と言うのだそうです。「アラー」というのは固有名詞ではなく、普通名詞だったのです。さすがの私もこれには驚きました。

(5)ローマ帝国で評判の高かったユダヤ教

新約聖書の時代において、ローマ帝国ではユダヤ教の評判はたいへん良く、ローマ人やギリシア人の中には、割礼を受けて正式なユダヤ教徒になることはなくても、その教えに賛同して、天地万物の創造者である神を信じて一夫一婦制を守る人はかなり大勢いたようです。使徒言行録にもそのような外国人はあちらこちらに登場し、この百人隊長コルネリウスもそのひとりです。さきほどお読みしたように、「信仰心篤く、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と記されています。あまり人をほめない主イエス・キリストも、カファルナウムで一人の百人隊長が、「自分のしもべの病気を治してください」と申し出たとき、彼の応え方に非常に感心して、「これほどの信仰はイスラエルの中でもみたことがない」(ルカによる福音書7)と語っておられます。概して新約聖書に登場する外国人は好意的に描かれています。

(6)ヤッファで見た使徒ペトロの幻

一方、ユダヤ人である使徒ペトロは、ながらくユダヤ教の伝統の中で育っていますから、ローマ人やギリシア人という外国人との交際は、心理的に非常な抵抗感があったようです。しかし神さまはキリスト教が全世界に伝わるようにペトロに対しても天からの幻を見せました。それが使徒言行録第10章9節以下です。

天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて地上に下りて来るのを見た。その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかしペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。

 私の育ったホーリネス教会では、無節操な教会員や怠惰な教会員が「ぶた信者」とか「らくだ信者」とか呼ばれて冷やかしの対象となりましたが、その根拠となったところの清い動物と清くない動物の区別は旧約聖書のレビ記第11章に詳しく書かれており、それもまた聖書の面白いところなのですが省略するとして、要するにこの出来事は、以前、主イエス御自身が弟子たちに何度も語り実践していた「律法の廃棄宣言」に他なりません。

(7)むすびの言葉

私たち人間の集団は、昔も今も組織をつくり、それを維持するために全力を注ぎます。それがすべて悪いわけではありませんが、かつてのユダヤ教のように、また最近のキリスト教のように、とかく利己的になり自分の殻に閉じこもってしまいがちになりやすいものです。しかし聖書を見る限り、そうした枠組みを外すのは会議や決議ではなく、社会や組織に対する神さまの霊の直接的な働きかけによるものです。そのような天からの声はいつ聞こえるのか、誰が聞くのか、どうして天の声だとわかるのかということはその時点でははっきりしなくても、後になってすべての人がそうだったと理解するようになるのです。

 神さまはユダヤ人だけでなく、キリスト教徒だけでなく、全世界のすべての人々を御自分のものとして清めるため主イエス・キリストをお遣わしになりました。ですから私たちはいつもそのような広い、信仰的な視野を失うことがないように気をつけなければなりませんし、使徒ペトロのように、周囲の人々をも神さまは愛しておられるという事実を学んでいかなければなりません。      (  完  )

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