「君がいいように」

山本三和人牧師召天12年記念礼拝・2012年9月9日

ルカによる福音書15:1ー7



山本 護牧師

 山本三和人牧師の召天を記念し、先生を思い起こす今日の礼拝に、御言葉を取り次ぐ証言者としてお招き頂き、ありがとうございます。
 かつて私は、ここロゴス教会の三和人先生の許で、神学生時代と見習いの伝道師時代の6〜7年間を過ごしましたが、いったい何を学んだのでしょうか、通常考えられるような、薫陶とか、影響とか、神学とか、そんな言葉の範疇には入らない何かを受けっているなあ、と今になって感じています。

 三和人先生の許で見習い伝道師をしていた頃、教区の会合などはいつも私が出席していました。教区との関連事項を先生に相談すると、先生はいつも「君がいいようにしてください」と答えます。「いいように」と言われても、見習いの私にはよく分かりません。でもなんとか、いつも、いいようにしていたように思います。

 またある時には、神学的な質問をすると、「君はどう考えますか」と問い返され、私なりに苦し紛れに答えてみると、「それでいいと思います」と、こういう調子でした。

 私は新米伝道師として、説教の準備の仕方を学びたい、牧会の経験を聞きたい、教区での実務的な仕事も教えて欲しい、といったごく普通の願いをもっていました。しかし、そうした期待はかないませんでした。ところがその一方で、三和人先生の超然としたふるまいに、何か得体の知れない力のようなものを感じていて、「これは聖霊の働きの多様性なのか」といろいろ逡巡しながら、3年間の見習い期間を過ごしました。

 先生に感じていた未知なる聖霊の力は、後になって未熟な私を欠けたまま押し出し、八ヶ岳で開拓伝道することにつながっていきました。

 考えてみれば、「しっかり厳しい薫陶を受けたい、偉大な先生の弟子になりたい」といった態度にあり、どことなく虎の威を借りるような甘えがあります。三和人先生の無責任とも思える寛容さは、実のところ先生ご自身が歩まれた独立的な道そのものではなかったか、と今になって感じています。
 「君がいいようにしてください」と言われ、未熟でありながら教会のことを自分で決断せざるおえなかった私は、いつのまにか、先生が歩まれたような独立的な道を歩くことになりました。

 「君がいいようにしてください」、と投げ返してくる三和人先生の恐るべき寛容さは、「牧師」という型にはまった聖書の読み方まで打ち壊されました。例えば、今日の聖書箇所などもその一例です。

 <*ルカ15:4> この記述を比喩として読むなら、1匹の羊が迷い出た信徒で、99匹が教会にとどまっている正しい信徒となりましょうか。羊を見つけ出す羊飼いは、「あなたがた(15:4)」、つまりファリサイ人や律法学者です(15:2)。真面目で信仰熱心なファリサイ人の羊飼いは、見つけ出した羊を、正しい群れの中へ連れて帰ることになるのでしょうか。

 <*15:5〜6> なんと、99匹の羊を野原に残したまま、1匹だけをつれて家に帰ってしまい、隣近所の人たちと喜び合っているではないですか。99匹が待っている、しっかりした正しい信仰の場へ戻らなくていいのでしょうか。
 どうですか、皆さん。「信仰の型」という先入観を排して、福音書の記述をそのまま読むと、「あれ、おかしいな」と思うことがありませんか。

 比較する意味で、同じ記述があるマタイ福音書の箇所も見てみましょう。<*マタイ18:12〜13> ここでは、家に帰ってしまうことはなく、迷った1匹の羊を99匹の群れの所に連れて帰るという感じが、暗示されています。そして、こんな違いも見られます。マタイの1匹の羊は「迷い出た(18:12)」と書いてありますが、ルカではどうでしょうか。

 <*ルカ15:4> この1匹の羊は、どうやら迷い出たわけではないのです。真面目で信仰熱心な羊飼いが、うっかりして見失っていただけなのです。

 この1匹の羊はなぜ、どこかへ行ってしまったのでしょうか。私は幼い頃、度々このような体験をいたしました。風に誘われ、幼子の冒険心によって、いつのまにか知らない所まで行ってしまう。迷子になることは、恐ろしいけれども、どことなく甘美な体験でした。

 1匹の羊は、群れから離れて、自分の世界に浸りきっていたのかもしれません。あるいは、同じ生き方が強要される集団の決まり事にうんざりして、好きな場所を見つけて草をはんでいたのかもしれません。この1匹の羊は、狼に狙われる危険を犯しても、自分らしい清々しい生き方を選んたのでしよう。

 どうですか、皆さん。こうして聖書を真っ直ぐに読んでみるだけで、今までとは違う、恵みの多様性や、救いのふくらみを感じませんか。

 この喩え話の結論は、こうです。
 <*15:7> 悔い改める一人の罪人の喜びは、99人の正しい人に勝る。羊飼いであるファリサイ人の立ち位置は、今まで正しい99人の側にありました。しかし羊飼いは、1匹の自由な羊を見つけ出したことで、正しさよりも、悔い改めることの重要さを発見します。羊飼いは変えられます。だから<*15:5〜6>。そして、野原に放置された99人の正しさは、輝きを失いました。

 己の正しさが打ち砕かれる解放と、つらい悔い改めが絶妙に混じり合った、自己の変革。息苦しい正しさは、大きな喜びに変わります。その真実の喜びによって、99人が支持するような正しさは野原に放置され、色褪せていきます。
 キリストの恵みとは、このようなものではないですか。人間の表面的な正しさは打ち砕かれ、悔い改めて解き放たれること。こうして、一人ぽっちであってもキリストに従う、清々しい生き方が啓かれます。

 それでは、もう一方のマタイ福音書の結論はどうなのでしょうか。
 <*マタイ18:14>  これは、まさしくイエスのまなざしです。そもそも羊という動物は、1匹で行動できるほど強くありませんから、迷い出た羊の行く末は、絶望的です。しかし、自分の力では道を見つけることができなくても、さまよって怯える私たちを、羊飼いキリストが必ずや探し出してくださる。
 私たちはキリスト者として生きていても、幾度も幾度も迷い、そのたびにキリストに探し出され、繰り返し御許に立ち帰ります。今、生を与えられて地上で過ごす数十年の間も、いつか召された後も、あるいは終わりの日に至るまで、私たちはキリストにしっかりと見つけ出され、キリストの御許で、皆さん自身であり続けます。キリストと共に、私は私として、』あり続けます。

 どうですか、皆さん。こうしてルカとマタイ、二つの福音書を丁寧に読み比べてみると、同じ事柄を記述していながら、救いのイメージが随分違うことに気づきませんか。どうして、違っているのでしょうか。そもそも、福音書同士がこのように食い違っていて、大丈夫なのでしょうか。

 イエスには、御自分が特権的な神の子であるという自覚はありませんでした。普通の人として、喜びや悲しみを私たちのように感じ、その土地の言葉で考え、その言葉で語りました。こんなイエスの周りに起こった出来事が、いろいろに口伝えされ、十字架の死後数十年を経て、正典として4つの福音書が記されました。

 それぞれに口伝えされた福音書は、「イエスこそ救い主である」ということを中心に据えて、イエスの様々な出来事を真剣に記しました。その結果がルカやマタイの違いになって定着しました。

 教会は、初期共同体の時代から、福音書相互の違いに気づいていました。しかし、その記述を書き写していく過程で、内容を統一させたり、辻褄合わせをしたりしませんでした。それぞれの福音書で食い違っている救いの御言葉を、「恵みの豊かな多様性」として、「救いのふくらみの実り」として、「相互に異なるがゆえの真実」として、今日まで継承してきました。

 私が、山本三和人先生の傍らにいて、身をもって経験したことは、こうしたキリストのふくらみでした。三和人先生は、私がいろいろお尋ねしても、「君がいいようにしてください」として、やんわり問いを投げ返してきました。そんな先生の投げ返しの内に聖霊がたっぷりと働かれ、御言葉の多様な実りを育て、多様なものを収穫する冒険へと、私を押し出しました。

 「教えを受けた」という点では、私は山本三和人先生の弟子ではありませんでした。しかし逆に、教えを受けずにさまよいながら真実を探すよう「押し出された」という意味でなら、私は三和人先生の忠実な弟子であろう、と自負しています。

 「君がいいようにしてください」とくり返し言われ、自分で決断せざるおえなかった私にとっては、三和人先生が牧されていたこのロゴス教会は、いわば99匹の正しい群れのようでありました。その結果、私は1匹の羊として群れを離れ、己の場を求めてさまようことになりました。

 そして時がひと巡りし、三和人先生の昇天を記念し、先生を思い起こす礼拝に、群れを離れたこの1匹の羊が招かれ、御言葉を取り次いだことが、なんだか奇跡のように感じられます。
 こうした計り知れないキリストの恵みに対して、心から感謝をもって祈りを捧げます。

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