広い場所で生きる                              

         

        大嶋 果織 牧師(日本キリスト者協議会教育部主事)

        8月7日礼拝 聖書・創世記26:15−25[井戸をめぐる争い]

1.今日は「平和聖日」です。今から43年前の1962年、日本キリスト教団は、その総会において、世界で始めて原爆が投下された8月6日を特に覚え、世界平和のため、核兵器撤廃のために祈りをあわせようと、毎年8月第1日曜を「平和聖日」に定めたのでした。それ以来、8月第一日曜には各地の教会で、平和のために、核廃絶のために祈りが捧げられています.けれども、大変残念なことに、世界は核廃絶どころか、核拡散の方向に向かっているようです。昨日の朝日新聞には、2004年現在、世界に存在する核弾頭の数は2万7000個近くという記事が載っていました。記事によると、朝日新聞社は日本、韓国、ドイツ、アメリカ、中国、フランス、以上6カ国で、核兵器をめぐる意識調査を行ったそうですが、質問の一つ、今後、核兵器を持つ国は増えると思うかという質問には、6カ国全てで、6割から7割の人が、増えると思うと答えたそうです。また、「今後10年のあいだに、世界のどこかで核兵器が使われると思うか」という質問には、アメリカでは7割近い人が「思う」と答え、ほかの国々では3割前後の人々が「思う」と答えたといいます。つまり、現在、地球上には、地球を何回も破壊できるほどの核兵器が存在し、その数と量は今後増えるだろうと多くの人々は考えており、さらに、実際に使われるだろう思っている人々の数も相当数に昇るというのが、あの世界戦争後60年を迎えた世界の状況なのです。わたしたちは、いつ爆弾が炸裂するか、いつ、核兵器のボタンが押されるかという、これまでにない強い不安と恐れの中にいるといっていいでしょう。

このような状況の中にあるわたしたちに、聖書はいったい何を語るのか。本日は、創世記26章15−26節をテキストとして選びました。

2.創世記26章は、イスラエルの族長イサクをめぐる物語です。創世記の中でイサクの扱いはけっして重いとは言えません。偉大な信仰の父アブラハムと、後に神からイスラエルという名前を貰うことになる息子ヤコブのあいだにあって、イサクは目立たない存在であると言えるでしょう。けれども、わたしはこの目立たないイサクこそ、今、注目すべき存在なのではないかと思うのです。26章1節によりますと、イサクは家族を連れて、飢饉を逃れてペリシテ人の住む土地ゲラルにや

ってきました。ゲラルでイサクはしばらくの間、平和に暮らしていたようですが、やがて成功して豊かになります。穀物を豊かに収穫し、多くの家畜や召使いを持つようになるのです。すると、ペリシテ人たちがイサクに嫌がらせするようになります(12−14節)。そればかりか。ついには、ペリシテ人の王アビメレクがイサクに、「あなたは強くなったから出ていって欲しい」と言うのです(15−16節)。イサクは王の要求に従って、それまでの滞在地を去り、谷へ向い、そこに天幕をはって住もうとします(17節)。

新しい土地に住むのに、まず必要なものは井戸です。水がないと、人間はもちろん、山羊や羊などの家畜も困ります。そこで、イサクは井戸を掘りました(18節)。ところが、ペリシテ人がやってきて、イサクたちが掘った豊かに水が湧き出る井戸を自分たちのものにしようとし、イサクの羊飼いたちと争うのです。イサクはその井戸に[争い]と名付けました(19−20節)。

イサクはさらに、もう一つ井戸を掘りました。すると、それをめぐってもペリシテ人が権利を主張するのです。イサクはその井戸を「敵意」と名付けました(21節)。イサクはペリシテ人の土地で、敵意に囲まれていることをひしひしと感じたに違いありません。

わたしは、この排他的で欲張りなペリシテ人に、日本人の影を見てしまうのですが、みなさんはいかがでしょう。よそ者が自分たちの生活圏に入ってくることを喜ばない。共存する工夫をするよりも、意地悪をして追い出そうとする。よそ者が貧しく、小さくなって暮らしている間は目をつぶっていても、数が増え、豊かになってくると、腹を立て、排斥する。そういった態度に、今の日本のあり方を思い浮かべてしまいます。

イサクは、ペリシテ人の敵意に満ちた意地悪や排斥に、暴力で立ち向かおうとはしませんでした。神が約束された土地だと主張して、力でペリシテ人に対抗しようとはしなかったのです。イサクがしたのは、ただ黙々と井戸を掘り続けることだけでした。イサクの僕たちの中には、そんなイサクのやり方を歯がゆく思った者もいたのではないでしょうか。金持ちになって召使いも大勢いるイサク。ペリシテ人と一戦交えることだってできるではないか。せっかく掘った井戸をどうして守らないのか。どうしてみすみすペリシテ人に取られるのを黙って見ていなければならないのか。イサクの僕たち、とりわけ血気盛んな若者たちの中には、不満を募らせる者もいただろうとわたしは想像します。けれどもイサクは、ペリシテ人との間に争いが起こるとそこを手放し、新しい場所に移動しては井戸を掘り続けました。その結果、どうなったでしょう。とうとう「争い」がやんだのです。イサクは、その新しい井戸を「レホボト」「広い場所」と名付けました(22節)。「レホボト」という言葉には、

囲いをとかれ、自由にされる、解放されるという意味があるそうです。敵意に対し敵意で報いず、暴力に対し暴力で対抗せず、ただ、自分が必要とする命の水を求めて井戸を掘り続けた時、イサクは争いから、敵意から、暴力から自由になり、誰からも脅かされることない「広い場所」を得たのです。

3.この井戸を掘り続けるイサクの物語は、敵意と暴力がうずまく「今、この時」に生きるわたしたちに、何が大切かを教えてくれるとわたしは思います。今、大切なこと。それは、敵意の応酬に与することなく、暴力の応酬に荷担することなく、イサクのように非暴力の方法を用いて、しつこく、あきらめることなく、立場の違う者が共存できる方法を探し求めること、共存できる在り方を探っていこうと努力することではないでしょうか。イサクの場合それは具体的に井戸を掘り続けることでした。私たちの場合はなんでしょうか。いろいろなことが考えられると思います。わたしは、今、教育関係の仕事をしているので、入学式や卒業式での「日の丸・君が代」強制問題を思い浮かべます。異なる思想・信条を持つものが、学校という場で、互いに尊重しながら共存していく。そのために、「日の丸・君が代」を押しつけないでほしいと少なからぬ人々が主張しています。そういった主張は、全体主義的な流れに押しつぶされそうになっていますが、あきらめずに、しつこく求めていくこと。たとえば、こんなことが「井戸を掘り続ける」ことの一つの例でしょう。あるいは、今日本に住んでいる百数十万人もの外国の人たちに対する、さまざまなかたちの差別。そういった差別をなくしていき、異なる文化の人々が共存・共生する社会を作っていこうとする働きも、「井戸を掘り続ける」ことだと思います。「井戸を掘り続ける」・・。それがどんなことであれ、わたしたちは、敵意や排斥に出会うと、暴力で応酬しようという衝動に駆られることがあります。けれども、イサクの物語が示していることのもう一つのことは、暴力に頼る者は暴力で滅びる、敵意を持つ者は敵意で滅びる、武器を持つ者は武器で滅びるということです。イサクに敵意を持ち、排斥したペリシテ人は、その後、強大な民族としてパレスチナに君臨しますが−パレスチナという名前はペリシテに由来しているということです−、やがて滅び去ってしまいます。イサクの物語は、敵意を持つ者はやがて敵意で滅びる。暴力によってではなく非暴力で、柔軟な姿勢で平和的共存を求める者は命を得るということを教えてくれているのです。

「平和聖日」の今日、命の水を求めて、非暴力で生きるイサクの生き方に思いを巡らせましょう。

そして、あきらめずにしつこく、平和的共存、共生を求めて生きるとき神さまが「広い場所」を与えて下さるという聖書のメッセージを確りと受けとめたいと思います。

TOPへ