走り寄る神

ルカによる福音書15章11−32節

07.9.16

大津 健一牧師

(日本クリスチャンアカデミー所長)

今日の聖書の箇所は、「放蕩息子のたとえ」として有名なところです。私たちの現実に対して、神は一体どこにおられるのかという問いに応えるものだといえます。

私たちは、主の祈りの中で「天にましますわれらの父よ」と祈ります。そこには、私たちのいるところよりもはるか高いところ()におられる神の存在を、どこかにイメージしているように思われます。16世紀イエズス会の宣教師が中国伝道を開始したとき、彼らは神(Deus)の訳語として、「天主」(「天の主」の意)と言う訳をあてがいました。日本でも16世紀後期には、「天主」と言う言葉が使われました。今日の中国でも、カトリック教会は天主教と言われています。

スイス出身の神学者カール・バルトは、神の存在について、高きにおられる神は、「われわれの許に降り、われわれの許に来たり、われわれのものと成りたもうた方のことである」(「教義学要綱」井上良雄訳、新教出版社、1951)と述べています。最も高きにおられる神は、私たちの存在の最も近くにおられる神であると理解することができます。

 神はどこにおれるのかを考える材料として、エリ・ヴィーゼルの自伝小説「夜」(村上光彦訳、みすず書房、1995)は、私たちに大切なことを語っていると言えます。ヴィーゼルは、ユダヤ人で、1944年、15歳のときにアウシュヴィッツの収容所に送られました。そのときの体験をつづったのが自伝小説「夜」だと言われています。

SS(ナチス親衛隊)は、ユダヤの二人の人々と若い一人を、集めた収容所内の人たちの前で絞首した。二人はすぐに死んだ。青年の死との闘いは半時間続いた。
『神はどこに?どこに彼はいるのだ?』誰かが私の後ろで質ねた。

だいぶ時間がたち青年はまだ縄にぶら下がって苦しんでいる時、その男がまだ叫ぶのを聞いた。『神はいまどこにいるんだ?』。そして私は一つの声が私の内で語るのを聞いた。『神はどこにだって?ここに彼はいる。・・・・彼はあそこで絞首台にぶら下がって・・・・』」

 ドイツの女性神学者ドロテー・ゼレは、神は『どこでも人間が痛みつけられるところ、そこで苦しんでいる』(「苦しみ」西山健路訳、新教出版社、1975)と述べています。

 今日の『放蕩息子のたとえ』をイエス様が語られた背景には、ユダヤ教の律法学者やファリサイ派の人々のイエス様が罪人と食事をしていることに対するあからさまな批判(ルカ15章1−2節)があります。イエス様は、この批判に対する一つの答えとしてこのたとえを語られました。

『放蕩息子のたとえ』では、 経済的に恵まれた家庭で育った二人の兄弟が登場します。兄は、父の許で忠実に働き、謹厳実直な生活をしていました。一方弟は、父の財産を当てにし、自分には父から引き継ぐべき財産があると主張し、父から財産の分与を受けて旅に出て、放蕩の限りを尽くします。その結果、父からもらった財産のすべてを使い果たし、ついには豚の世話をする仕事をしながら生計を立てなければならない状態に置かれました。また、豚の食べるイナゴ豆を食べたいと思ったほどでした。当時『ユダヤ人がイナゴ豆しか頼れなくなったら、その時は悔い改める』ということわざがあったと言われています。『悔い改める』とは『立ち返る』と同じ意味です。放蕩によって身を持ち崩し、かつて父の前で自己主張した勇ましい姿はなく、すべてのものをなくした一人の男の打ちひしがれた姿を見ます。そしてついには、父や兄から受ける批判を覚悟しながら、最後の頼りである父の許に帰っていきます。言うまでもなく、このたとえの中で『父』は神、放蕩に身を持ち崩した息子は、神の前でなんら誇るものを持たない一人の人間の姿が想定されています。

この息子を遠くから見つけた父は、『憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。』(ルカ15章20節)とあります。放蕩に身を持ち崩し、ボロボロになって帰ってきた息子に対して、父はなんらとがめることなく、『憐れに思い』『走り寄って』『接吻した』とあります。『憐れに思い』(Compassion)とは、放蕩息子に対する拒絶ではなく、ぼろぼろになって目の前にいる息子に対する父の共苦があります。身も心もボロボロになった息子の苦しみを共に担う姿があります。『走り寄る』とは、父のいるべき場所を固守せず、父自らが息子に近寄っていく姿が示されています。息子に『接吻した』と言う言葉は、放蕩息子に対する全面的な受け入れを表しています。またこのことによって弟の全人格の回復がなされたことを暗示しています。

 一方兄は、自分を正しい人間であると断定し、放蕩に身をもちくずした弟に対する厳しい批判や、放蕩した挙句、無一文になって帰ってきた弟への拒絶があります。兄の姿に、神の前に正しい存在であると自己主張する人間の姿が示されています。イエス様は、謹厳実直な兄の姿に、遊女や「障害」者や重い病気の人々を、律法を守らない『罪人』と断罪し、社会から切り捨てたファリサイ派の人々や律法学者の姿をダブらせているように思われます。   

 イエス様はこのたとえを通して、神は私たちの最も弱いときに、神自らが私たちのそばにきて、なんら自己主張することの出来ない私たちの存在を受け入れ、共に私たちの苦しみを担ってくださる方であることを私たちに示しています。

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