天邪鬼という小悪魔

信徒証言08.3.30

詩篇248-10/エフェソ書611-16

紫垣 喜紀兄

 御堂の高いところに立って、緊張しております。かねてより真野さんや白築さんから、証言するように言われておりましたが、信仰は未熟、生来の口下手でもありますので、固辞してまいりました。しかし、転会したいま、自分の経歴や性格を知っていただくことも必要かと思い、今回お引き受けいたしました。ただ、自己を語るというのは、自分の自慢話に陥りがちでございます。もし自慢話になったら、窓の外は桜が八分咲きで見頃になっております。どうぞ、そちらに目を向けて無聊をお慰めください。

私の“きょうかい歴”は37年でございます。「きょうかい」と申しましても「チャーチ」の教会ではなくて、日本放送協会の「協会」であります。入社は昭和38年、1963年でした。その年、NHKは放送記者を40人採用しました。いつもの年の3倍ほどの新卒者を採用しました。なぜかと言えば、次の年の昭和39年が東京オリンピックの年だったからです。政府はオリンピックを国威発揚の場として、戦後の復興ぶりを誇示しようとしていました。東海道新幹線や首都高速道路を突貫工事で完成させました。NHKもカラー放送で競技の模様を全世界に配信しようと社運をかけていました。

NHKは取材要員を東京に集め体制を強化しました。我々、新入職員はその穴埋めに地方局に配属されました。私は金沢に赴任いたしました。この年は「38豪雪」といって北陸地方が豪雪に見舞われ、金沢局の記者の定数が一名増員になったのです。そこにはまり込んだのです。その頃、中野先生も金沢大学で教鞭をとられていて、NHKの番組にもご協力いただいていたそうでございます。まことに、奇遇だと思います。

 入社すると、先輩の記者が色々と知恵をつけてくれます。私が酒好きなので、「酒はほどほどに」と忠告する人もいました。「放送記者の平均寿命は62歳だから、身体に気をつけろ」とも言っていました。

 当時、私は若かったので、気にも留めませんでした。「おや」と思ったのは、私が50歳になった時です。既に7人の同期の記者が亡くなっていました。40人中7人。死亡原因の大半はガンと自殺です。ジャーナリストには、ガンや自殺で早死にする人が実に多い。想像以上にタフな仕事なのです。

金沢のあとは、東京の報道局・政治部に異動しました。政治部記者というのは報道局の中で一番羽振りをきかせています。態度が大きい。横柄。いつも権力者に接しているものですから、どうしても“虎の威を借る狐”になってしまうようです。それに、首相官邸や国会、政党本部を回るときには、黒塗りの大型の外車をつかっていました。偉くなったように錯覚に陥るものです。駆け出しの政治記者として、初めて体験したのが“沖縄返還交渉”です。

沖縄に核兵器があるのかどうか。返還交渉の過程で日米の密約があるのかどうか。国会で侃々諤々の論戦が続きました。こうした状況の中で、1972年(S473月、毎日新聞の西山太吉記者が密約の文書3通を入手。これを元に社会党の横道孝弘議員(現衆院副議長)が政府を追求して騒然となりました。

ところが話は変な方向にそれていくのです。横道議員が密約の文書をそのままコピーして配布したために、決済欄の印影から情報源がわかってしまいました。外務省の女性事務官は公務員の守秘義務違反で逮捕。西山記者もそれをそそのかした幇助の罪で逮捕されたのです。更に、権力側はこれをセックススキャンダルに仕立てるのです。

起訴状を書いたのは東京地検の佐藤道夫検事(民主党の現参議院議員)。「西山記者は女性事務官をホテルに誘って秘かに情を通じ、これを利用して文書を入手した」。これを週刊誌が一斉に騒ぎ立てたのです。世論が逆転しました。国民の目は見事なまでにスキャンダルに向けられ、密約問題は消し飛んでしまったのです。政府は更に「国家機密法を制定する」と野党を牽制。

野党側の国会追求も尻すぼみにおわりました。毎日新聞社は大きなダメージを受けました。「人妻との不倫によって情報を入手した」。抗議の電話が殺到。毎日新聞は編集局長を解任、西山記者を休職処分にしました。それでも、止まりません。毎日新聞は、その後の不買運動や石油ショックの影響を受けて、会社更生法の適用を申請しました。西山記者は辞職して下関の水産会社に転職しました。外務省の女性事務官は辞職して離婚。悲劇的な結末を迎えたのです。私は当時、保利茂官房長官を中心に取材活動を続けていました。懇談中に毎日の記者が息を荒げたのを覚えています。いきなり西山事件に遭遇。権力の逆襲に慄然たる思いをいたしました。

  私は、佐藤内閣、田中内閣、三木内閣、福田内閣、大平内閣までを現役の記者として取材しました。いまは、語り尽くせません。現役を離れたあと、放送局の中でデスクワークにあたることになりました。まあ、少し偉くなったのです。40代の中頃、“ニュース・センター9時”NC9の担当になりました。NC9は、磯村尚徳、勝部領樹、小浜維人と続いたNHKの看板番組です。私が担当したときは、木村太郎・宮崎緑のコンビ。天気予報は倉嶋厚でした。NC9は、編集長の下に政治班、経済班、社会班、スポーツ班などのグループに分かれていました。

私は政治班のチーフ・プロデューサーという立場でした。“NC9の政治班”は、政治ニュースのみならず、日曜朝の「国会討論会」、「総理に聞く」という番組、本会議や予算委員会の国会中継を一手に引き受けていました。政治番組の中核的な組織です。まあ、NHKの登竜門の一つでもあったのです。平たく言えば、私は出世コースに乗っていました。幸い、私の在任中にNC9は大いに盛り上がりました。視聴率が20%を越えることも多く、同じNHKの看板番組「7蒔のニュース」を凌ぐほどでした。私は得意の絶頂にありました。

 ただ、得意になってはしゃぎすぎると、ろくな事はありません。「人生には、上り坂と下り坂の他に、“まさか”という坂がある」とはよく言ったものです。私は、サラリーマンの階段を突如、踏み外しました。組織で失敗するのは“異性問題”か“酒”と相場が決まっています。私の場合は後者の“酒”でした。NHKの近くの飲み屋で一杯引っかけて局にあがりました。部屋では、報道局の幹部や、もっと偉い人も入って、何か打ち合わせをしているようでした。そこで私は舌禍(ぜっか)事件を起こしたのです。「知恵の無い者がいくら集まったところで、NHKの番組はよくならない」と言い放ったらしいのです。

その他にも、罵詈雑言を浴びせたようです。「それを言っちゃお仕舞い(しまい)よ」。瘋癲(ふうてん)(とら)さんの口癖ですが、言っちゃお仕舞いになるそれを言ってしまったのです。間もなく、NC9のチーフ・プロデューサーの職を解かれ、閑職に追われました。
 カフカの小説「変身」で主人公が “毒虫”に変わりますがあの主人公と同じです。周りの自分を見る目が180度変わったのです。冷ややかになりました。その代わり、毒虫の目には、今まで見えなかったNHKの風景が見えるようになりました。NHKの掃きだめには、仕事をサボタージュする者、アル中、泥棒、いろんな不平不満分子が(うごめ)いているのがわかりました。

とても社会保険庁を笑っていられません。同期の仲間が、部長だ、局長だ、理事だと出世していくのを横目にしながら、私は、階段を踏み外した悲哀を味わいました。NC9時代、私が体験した最大のニュースは、日航ジャンボ機の墜落事故でした。私も得意の絶頂から奈落の底に見事に転落したのです。

 

その頃から、私は教会に足を運ぶようになりました。高幡不動にある長老派の日本基督教団・高幡教会です。何か支えがほしかったのだと思います。木に登ってイエスを見ようとしたザアカイみたいなものです。長い間、不遇をかこっていましたが、夜の明けない闇夜はありません。舌禍事件から4年ほどたったある日。私が50歳になった時です。トップダウンで私のところに意外な業務命令が下りてきました。「デフ・ニュースを開発してくれ」という。デフは英語で“耳の聞こえない人”の意味。

つまり、「聴力障害者向けのニュースを作れ」ということでした。NHKの経営者は、その年に受信料の値上げを目論んでいました。その口実として、福祉番組の充実をあげていました。“デフ・ニュース”はその目玉だったのです。何を作ればいいのか皆目わかりませんでしたが、文句の言える立場ではありません。わたくしは、手探りながらがむしゃらにデフ・ニュースを開発しました。大袈裟に言えば、世界に例のないオリジナルの番組です。

デフ・ニュースは、1990年、平成2年の4月の新年度からNHK教育TVで放送を開始しました。私は、白紙のカンバスに自在に色を塗っていきました。まずいところが有れば別の色を塗りかえました。試行錯誤です。私は、四つの番組を立案して実行に移しました。夜の「手話ニュース8:45」。昼の「手話ニュース」。日曜朝の「週間手話ニュース」。土曜日の夕方の「こども手話ウイークリー」。これら四つの番組を完成させました。多分、今もこれらの番組は継続されていると思います。

ところで、“手話ニュース”は、日本語を手話に翻訳して伝えるニュースです。私は“手話ニュース”用の原稿を書くのに聖書を参考にしました。聖書の新共同訳の文章は非常に良く出来ていると思っていたからです。手話に翻訳しやすい文章を書くのに大変役に立ちました。それから、もう一つ聖書を参考にした点があります。ご承知のように、聖書に出てくる漢字にはすべて“ルビ”が振ってあります。私は、字幕スーパーの漢字にすべてルビをつけさせました。識字力の弱い聾者(先天的な聴力障害者)に必要だと考えたからです。

手話ニュースは順調に軌道に乗りました。手話ブームが起こったりしました。しかし、何よりも嬉しかったのは、聾者の言語である手話が市民権を得たことでした。教育TVとしては、視聴率も上々でした。そのまま大過なくNHKを勤め上げれば、私には「手話ニュースの父」とか「福祉番組の開拓者」といった称号が贈られたかも知れません。しかし、そうはなりませんでした。私は、仕事が上手くいっている時に「自滅」する癖があるんです。今度は酒で失敗したのではありません。私は、手話ニュースを面白くしようと思って、幾つかの試みを実行に移していきました。「手話コラム」という企画ニュースを作ったのも、そんな試みの一つでした。私が主筆で2分30秒ほどの辛口の時事評論を書いて放送していました。この「手話コラム」で失敗したのです。今度は筆禍事件を起こしてしまいました。つまり、筆を滑らせたのです。

 西暦2000年・平成12年。私は還暦、60歳を迎えていました。時の総理大臣は森喜(もりよし)(ろう)。彼は“神道政治連盟国会議員懇談会”において変な発言をしました。「神の国発言」です。「日本の国、まさに天皇を中心にしている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく。そのために我々が頑張ってきた」。この発言は問題になりました。
「国民主権とか政教分離の原則に反する」と野党やマスコミから叩かれます。森内閣の支持率は急落しました。森内閣は衆議院を解散して総選挙に打って出ました。私は「こんな人物に国の舵取りを任せてなるものか」と怒りがこみあげてきました。自ら筆を執って「森内閣を弾劾するコラム」を書いたのです。「閉塞した政治状況に風穴を開けよう」とも訴えました。

すっかり精神が高揚していました。このコラムを、総選挙の投票日の前日、6
24日の夜に流したものだから、大騒ぎになりました。自民党からは勿論NHKに抗議がきました。NHKは“査問委員会”を開き、私はそこで破門されたのです。私も、不偏不党、公平中立を唱った“放送法”に抵触したことを認めて会社を辞めました。それ以後、NHKとは没交渉、一切のかかわりをもっていません。ドン・キホーテは槍を持って風車に立ち向かいました。私はペンを滑らせてあえない最期を遂げたのであります。こうして私の間違いだらけのサラリーマン生活に終止符が打たれました。

毎日が日曜日になったある日、高幡教会の牧師さんがぶらりと訪ねてこられました。牧師さんは、自分は近く別の教会に変わるので、この際、洗礼を受けてはどうか、というお誘いでした。私は「一宿一飯の義理もあるしなあ」と思いながらも即答はしませんでした。その足で、マレーシアのキャメロンハイランドという避暑地に遊びに行きました。少し頭を冷やそうと思ったのです。そこで、ニュージーランドの婦人宣教師と出会いました。60代後半の威勢の良い人でした。

私が「教会には熱心に通っているが、洗礼は受けていない」と言うと、すごい剣幕で怒鳴られた。背中をどんと叩かれました。こうして、私は、2000年のクリスマスに洗礼を受けました。日本の牧師の情に絡めた説得と外国人の婦人宣教師の恫喝によって、私は日本放送協会からキリスト教の教会に鞍替えしたのです。

人生に「たら」「れば」は通用しません。もし、「あの時こうしていたら」という奴です。それは、未練というものです。だから、後悔してもはじまらないのですが、やはり我が人生には釈然としないものが残ります。「いいところまで行くと、絵に描いたように“落とし穴”にはまる」「物事が順調に進んであるときに、なぜ自分は自滅してしまうのだろう?」 ああでもない、こうでもない、と思案した末に、自分の体内には「サタンが巣くっているのではないか」と思うようになりました。

それも、さして大物でないサタン。そして、思い当たったのが天邪鬼という虫です。天邪鬼というのは、人間が赤ん坊のときから持っている困った本能です。泣きやめといえば、かえって大声で泣きわめく。右向け右と言われれば、左を向きたくなる。人が白と言えば、黒といいたくなる。他人の言動に対しては、「何言ってるんだい」「何やっているんだ」と反発する。それが天邪鬼です。天邪鬼は、抑制が利いているうちは、「反骨精神」だの「批判精神」とか言われて誉められることもあります。

しかし、この虫のいやなところは、人間の理性を押しのけて、しばしば暴発、増殖する点です。臨界点を越えると“反抗”“反逆”という巨大なサタンに変身してしまうのです。私は、感情が高ぶりやすいので、簡単にサタンに支配されてしまう。見境もなく「権威」や「権力」に刃向かってしまうのです。これはまずい。宮崎県知事ではないけれども、「天邪鬼をどげんかせんといかん」と思いました。ところが、人間の性格などというのは、そう簡単に変わるものではありません。男は急に停まれないのです。「天邪鬼退治」を考えているうちにその天邪鬼がまた暴れ始めたのです。


実は、私が通っていた高幡教会の牧師さんが変わられました。私に洗礼を授けられた牧師が静岡の教会に移り、かわりに神学校を出た若い伝道師がこられた。新しい牧師さんは、自分が教会を引っ張るという気概にあふれていました。しかし、端的に言って、私とは反りが合わなかった。またぞろ、「何言っているんだい。教会の(かしら)みたいな顔をしやがって!」と、悪い虫が暴れ始めたのです。さすがに、「これではいけない」と思いました。「信仰の場で諍いを起こしてはいけない」。しかも、相手はいくらなんでも自分の子どもほどの若い人ですからね。そこで、トラブルを避けるために、しばらく教会に行くのを中止したのです。

そこで、どこか気楽に行ける教会は無いだろうか、と思っていたら、一つ閃きました。牧場の隣にある「ロゴス教会」。昔一度だけ入ったことがありました。チェロの演奏会。普通のチェロは四本の弦が張ってあるのですが、五弦の珍しいチェロの演奏だというので、覚えています。そこで、ためしにロゴス教会の主日礼拝に参加してみました。2002年だったと思います。それから今日まで、用事のない限り日曜礼拝に参加しています。何故居座ったかといえば、一言で言えば「居心地がよかった」からです。居心地がいいというのは、「気持ちが落ち着く」ということです。

ふり返ってみますと、私は“サラリーマン生活”でも“信仰生活”でも常に速い馬に乗ろうとしてきました。スピードばかりを求めました。仕事は常に時間との競争でした。手話ニュースなどは準備期間1ヶ月で放送にこぎつけました。信仰もそうです。聖書を猛スピードで読み飛ばしました。“信仰とは何か”を追求しました。「信仰は業によって深められるものではない。すべてを神に委ねることにつきる」。○×式のテストなら良い点数がとれそうです。観念的にはわかっているのです。

それでは、「イエス・キリストを信じる信仰に確信がもてるか」と自問すると、はなはだ頼りない。心許ない。まるで自信がもてないのです。早馬に乗っても何一つ得るものはなかったのです。それどころか、早馬に乗ろうとすればするほど、不信仰の泥沼に足をとられていたことに気づきました。

先日、飯沢牧師と一緒に電車で帰りました。牧師は月に一回“ロゴス教会”に来るのが楽しみだ、とおっしゃっていました。私も同感です。ご馳走にありつけることもありますが、会堂の居心地がいい。兄弟姉妹との交わりが楽しい。教会に来て気持ちが落ち着くというのは、私にとっては、明らかな変化でした。この感じを、いま私は大切にしたいと思っています。

私は、目から鱗の落ちるような劇的な神体験はありません。しかし、「私がロゴス教会に導かれたのは神の御計画の一つかもしれない」。私は、そう考えるようになりました。牧師の解き明かされる御言葉が少しずつ心に浸みるようになってもきました。あの天邪鬼(あまのじゃく)の虫も静かにしてくれています。

先程、 “エフェソの信徒への手紙”の6章を、司会の真野さんに読んでいただきました。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」。“神の武具”とは物々しい表現ですが、まあ、「聖書の御言葉」と理解すればいいのではないかと思っています。いまは、あまり身構えずに、牧師さんの証言に謙虚に耳を傾け、敬愛する兄弟姉妹の経験と知恵に学びたいと思っています。

ゆっくりとした時の流れに身を任せたいと思います。

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