八王子開堂25周年・永眠者記念礼拝

  2008年11月2日(日)

  おおかみの中におくられて

 山本 俊正牧師

聖書 マタイによる福音書1016-20 「迫害を予告する」

「わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒してなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

私たちは、今日の日曜日、私たちの信仰の先達であった召天者を覚え、また、ロゴス教会が八王子のこの地に開堂されてから、25年が過ぎたことを覚えて礼拝を守っています。ロゴス教会は、1889年に牛込福音伝道所から始まり、牛込福音教会、1941年には日本基督教団牛込矢来町教会となり、1947年には、目白に日本基督教団ロゴス教会が誕生しました。そして1983年に八王子の地に移転したわけです。1889年の牛込福音伝道所の時から数えれば、今年は、創立119年ということになります。
 
もう30年以上も前のことですが、私の大学の恩師で、政治学者であった高畠通敏先生がある雑誌で、作家の五木寛之と対談した時、五木寛之が、その時までの自分の人生を振り返って、「20代、30代を振り返ると特に、自分が何かに追われて生きていたような気がする。自分の生きる目的が、自分の内にあるのではなく、外側の、外部の要請や予定や計画があって、それに追われて生きてきたような気がする」と述べていました。これに対して、高畠先生は、「人生というのはブーメランのようなものではないでしょうか、ある時点までは、何かを追い求めたり、何かに追いかけられながら、一つの方向に夢中で走り続けるのですが、ある時点で内的な方向転換をし、自分が出発した所に戻るようになる。つまり、自分を内省したり、自分を掘り起こしたり、自己を深めてゆくようになる」と述べていました。確かに、あと、2ヶ月余りで、この2008年も終わりますが、私の今年の手帳を見ると、

この一年間に行ってきたことで真っ黒になっています。五木寛之的に言えば、私にとっては、まさにこの一年も、授業や学校の行事や計画や会議に追われながら、走り続けてきた、一年でした。皆さんの中にも、私と同様な感想をお持ちの方が多いと思います。私はまだ、 ブーメランの曲がり角には来ていないのかもしれません。八王子の地で25年を迎えたロゴス教会の場合はどうでしょうか。教会はこの25年間をどのように生きてきたのでしょうか。また、新たな25年をどのように歩もうとしているのでしょうか。内的な方向転換をし、原点に戻って考えてみることが必要かもしれません。
これは、当たり前すぎることですが、私たちは今日、この日を現在として、生きています。この日曜日、2008年11月2日という日も、24時間たちますと、11月3日に変わり、その日が、私たちの現在になるわけです。日本の有名な哲学者の一人に、波多野精一という人がおります。彼の書いた本の中に、「時と永遠」という名著があります。波多野精一はこの本の中で、「時間の不可逆性」ということを述べています。つまり、時間というのは、現在に始まり、それが過去となり、未来がやって来るということで、その逆はないということです。その時間の流れの中で、私たちは、どのように生きたら良いのかということを波多野精一は問いかけているのです。この問いは25年を迎えたロゴス教会への問いでもあると思います。この時間の中でロゴス教会は次の25年をどのように歩んだらよいのかという問いであります。

 
本日の聖書に書かれている「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」という言葉は、イエスの語録にある有名な比喩の一つです。この比喩をふくむ今日のテキストには、この世におけるキリスト者の生き方、またロゴス教会の歩みの基本的な姿勢が、じつに的確に表現されていると思います。このイエスの言葉をヒントに波多野精一の問いかけを吟味してみたいと思います。今日の聖書の箇所は第一に、私たちの教会のおかれている社会の状況認識のあり方、第二には、状況認識を踏まえて私たちのとるべき態度決定のあり方が記されています。そして厳しい状況と厳しい態度決定という二つのもののあいだにあって、私たちを究極的に支えているものは何かということが示されています。
 
テキストの冒頭には「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである」(一六節)とあります。この「わたし」には、「エゴー」という言葉が使われており、とくに「つかわす」主体を強調しています。つまり、冒頭から、話の出発点はイエスであり、イエスの決意と行動が強調されていす。企業の経営戦略の用語で「選択と集中」という言葉が使われますが、まさに、「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである」という言葉はイエスの「選択と集中」なのです。イエス自身がつかわすゆえに、キリスト者に対して、また教会に対して、迫害が生ずるだろう、と述べられています。 (一七節以下)。イエスは、人間がこの世を生きていく時には苦難があるという、人間の運命についての一般論を言っているのではありません。それは、キリストの弟子たるものに生ずる出来事であり、イエスに従うものの状況なのです。私たちは、自分たちがオオカミの中におくられているということを、どのくらい自覚しているでしょうか。私たちは、オオカミに象徴される厳しい状況におかれていることを認識せねばなりません。

つづいて、「だから蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」(一六節後半)と書かれています。ここでは、蛇と鳩という対照的な動物がキリスト者の態度を示す比喩として登場します。蛇と言えば、創世記の初めに悪賢い悪魔の代理のような形で登場し、ヘビの舌は二つに割れていて、2枚舌で巧みに、アダムとイブを誘惑します。

一方、聖書の中の鳩は、ノアの物語いらい、しばしば、平和や柔和、無垢などの象徴とされています。ときには、ホセア書のように、知恵のない愚かな動物と言われることもありましたが、この世の悪、妥協などから意識的に断絶することが示されています。「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」というのは、イエスに従い、イエスの福音の証人たらんとするには、イエスの使信をたんに担い、伝えるだけでは十分でない。私たちが、どのようにしてそれを証しし伝えていくかという、その「いかに」という行動の仕方を問われているというのです。私たちほ、狼の中で暮らさねばならないのですから、羊は、あらゆる知恵を用い、困難な状況を生きていかねばなりません。新約聖書における代表的な伝道者であるパウロは、地中海を伝道しながら東奔西走しますが、福音を伝えるために、その伝道方針は「ユダヤ人にはユダヤ人の如く、ギリシャ人にはギリシャ人の如く」と表現しています。
教会がオオカミの中にあるという時、私たちは、基本的に「羊」であるということを忘れてはならないでしょう。つまりオオカミの中にあって、羊としてのアイデンティティを維持しなければならないのです。それは、イエスの福音を託された者として、つねに真実に生きることです。私たちの存在自体が、イエスの真実を反映するものでなければなりません。羊にとって迫害されることが危険なのではなく、最大の危険は、羊としてのアイデンティティを喪失することです。イエスは「からだを殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」(マタイ一〇・二八)と、語っています。外的に私たちの肉的生命を脅かす権力は、恐ろしいものですが、もっとも恐るべきものは、信仰を裏切ること、キリスト者としてのアイデンティティの危を喪失することです。ガンジーは有名な非暴力の闘いを宣言した集会で、「自分が抵抗運動をすることによって、政府は私に殴りかかり、私を痛めつけることはできます。また、私を殺せば、私の死体を手にすることができます。しかし、暴力によって、彼らに対する私の服従は手にすることはできません」と宣言します。

今から25年前、1983年11月22日の朝日新聞に、「反戦・平和の拠点ロゴス教会の復活」という見出しの記事が出ています。この記事のコピーは、教会役員の白築さんが中心に作成してくださったロゴス教会、25年の歩みをしるした小冊子の中にも掲載されています。ロゴス教会は反戦、平和の拠点として知られ、八王子の地に25年前、再出発したのです。戦時中からロゴス教会の山本三和人牧師は反戦牧師と呼ばれ、日本軍の言論弾圧に抵抗しておりました。「ロゴス」とは、「初めに言葉(ロゴス)があった」(ヨハネ福音書1章)に由来していることは周知のことです。山本三和人牧師は言葉(ロゴス)を大切にし、それをオオカミから守り抜いた牧師であったのではないでしょうか。

羊が羊でなくなるとは、具体的にどういうことを意味するのでしょうか。大きくいって、二つの場合があると思います。まず、羊がオオカミに同調して、オオカミの仲間に転向することだと思います。支配的なイデオロギーに自己を一体化させ、多数者とともに時代に流されるということです。世間の人びとが戦争を謳歌している時、キリスト者や教会までが軍国主義に声を合わせ、権力にすりよっていくのです。いま一つは、オオカミと羊らしからぬ行動を共にすることです。オオカミのように牙をむきだして争うわけです。キリスト教の歴史をみると、残念なことですが、教会やキリスト者が羊でなく狼になった時代がありました。福音の真理のためと称して、この世的な権力手段を用いて戦争に加担するのです。十字軍や聖戦、宗教戦争への参加です。

 現在、日本の教会はオオカミと関係のない社会に存在しているのでしょうか。私はそう思えません。戦後60数年たって、私たちの状況は、今や、ふたたび暗くなりつつあるのではないでしょうか。格差社会の問題、ワーキングプアの増加。表面にはあまり出なくなりましたが、改憲や日本の右傾化の問題、数えあげたらキリがありません。これらにたいして、私たちは、また教会は福音の真理を掲げて、臆することなく信仰を具体的な形で証しすることが求められています。私たちが羊であるということは、世界、社会の中で弱い立場にある人と共に生きるということだと思います。弱い立場に立ち続けるということです。オオカミは私たちに襲いかかってくるかもしれません。
私たちは神の力に支えられ、イエスに派遣された教会として、25周年を迎えていることを覚えたいと思います。「オオカミの中に遣わされた教会」を信仰の先達たちである召天者と共に、25年を喜びたいと思います。    
                           祈り
主なる神様、この記念すべき聖日を共に祝い、あなたの働きと変わらぬ導きを覚える時が与えられ、感謝いたします。永遠の命を与えられた、私たちの信仰を強め、自分の目先の事柄にとらわれず、あなたの栄光を現す働きと幻を見ながら、「オオカミの中に遣わされた羊の教会」として、信仰の道を歩むことができますように導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン

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