「ペンテコステの出来事」
ペンテコステ礼拝 06.6.4(使徒言行録2:1−13 聖霊が降る)
山本俊正主任牧師・日本キリスト教協議会総幹事
本日の日曜日はペンテコステの聖日に当たります。すなわち、主イエスが十字架につけられ、3日目に復活されてから50日目の5旬節に聖霊が降臨し、この地上に教会が誕生しました。ペンテコステの日には、二つのことを祝わねばなりません。一つは、聖霊の降臨という出来事であり、もう一つは教会の誕生という出来事です。使徒言行録を読むと、聖霊の驚くべき働きが、2000年以上も前に起きたことを知らされます。イエスが死に、弟子たちは困難に直面し、イエスに言われた通り、エルサレムに残り毎日のように祈っていました。そして、当時、ユダヤの三大祭りの一つであった、小麦の収穫祭であったペンテコステの日に神の霊が降ったのです。聖霊なる神が一人一人の上に臨み、あれほど臆病で、イエスが十字架につけられた時、雲の子を散らすように逃げてしまった弟子たちが、最初のキリスト教会を造る者に変えられていったのです。私は、このペンテコステの出来事で弟子たちが、今まで経験したことがない喜びと勇気を与えられ、聖霊の器に変えられてゆく姿を読む時、現在の日本の閉塞状況の中で、「聖霊よ来てください」という叫びと祈りの中で、苦悶し、平和の福音を生きようとするキリスト者がいることを覚えます。
日本は現在、戦後から新たな戦前を歩み始めていると言われます。確かにここ数年、ハード面の国内法整備として、あっという間に「日の丸、君が代=国旗、国歌」法、「盗聴」法、「有事法制」が制定され、それに加えて、「共謀罪法」、「教育基本法」及び、「9条」をターゲットにした憲法改訂の準備が着々と進められています。勿論、法律だけを整備しても、戦争は出来ませんので、「戦争のできる国」を支える心情を培うための、「愛国心教育」が「心のノート」として学校に導入され、「日の丸、君が代」の強制を学校で日常化することにより、ソフト面での整備をはかっています。さらに深刻なのは、ハード・ソフト両面の動きに呼応して、イラク特措法に基づく自衛隊のイラク派遣に見られるように、「改憲」と「戦争をする国」への既成事実が積み上げられています。今から、15年前、いや10年前、には、自衛隊が海外に出かけて行くことなど考えられないことでした。日本のキリスト者は、日本が過去に犯したアジア諸国への侵略戦争の罪責を悔い改めて、日本の国が憲法に明記されている平和主義、国民主権、基本的人権の尊重に堅く立つことを願って、神の宣教に参与してきました。しかし、靖国神社への首相及び閣僚による参拝は毎年継続され、アジア・太平洋戦争において2千万余の人々の命を奪った歴史は軽視され、戦争被害者の苦痛を増幅させているのが現実です。
現在の日本の状況のもう一つの特色は、90年代に始まる、階層型社会への移行と言えます。グローバル化経済の進展に伴い、大企業は会社や工場を低賃金で雇用できる海外に移転し、正社員労働者の雇用が減少しています。また、下請け制度を基本とする日本の産業構造は、大企業の移転で、下請け会社は倒産を余儀なくされています。90年代に入り、日本でもホームレスが急激に増加し、年間の自殺者は3万人を超えています。ホームレスの増加傾向は、80年代に米国で 起きた現象と酷似しており、日本が米国型の階層社会、格差社会に移行していることを示しています。少数の上層、「勝ち組」、エリートと多数の下層、「負け組」で構成される社会の形成は、福祉、教育、医療の分野で切り捨てられてゆく人々を生み出し、ニート、フリーターと呼ばれる若者を増加させる一因となっているわけです。この米国型階層社会への移行と上層の人々を中心にした社会統合モデルは、日本において「共生社会」の実現を目指す、マイノリティ及び被差別者に対する、人権擁護運動にも大きな影響を与えています。例えば、去る5月17日、改正入管法が参議院本会議で採決され、自民・公明などの賛成多数で可決、成立しました。日本に入国する16歳以上の外国人に対して、強制的に指紋や顔写真をとる法律ができたわけです。来日する外国人の半数以上は、韓国、中国、台湾という近隣諸国の人たちです。在日韓国・朝鮮人などの「特別永住者」は対象から外されるものの、それ以外の「永住者」は対象になります。1980年代からキリスト者も深く参与した「指紋押捺」撤廃運動で獲得した成果が、闇に葬り去られようとしているわけです。入管法による指紋押捺の強制は日本国内で解決すべき問題ですが、「テロの未然防止」という米国の世界戦略と深く関連しています。米国を中心とした政治、経済、軍事のグローバリゼーションに対して、市民や教会は世界の人々と教会と連携して、グローバルな対抗軸を形成することが必要とされています。
私たちは、このような時代の流れの中で、イエスのみ言葉に聞き、和解と平和の福音に立って生きる勇気を持つことが求められているのです。私たちは、弟子たちが失望と落胆のうちに祈っていたように、「聖霊よ来てください」と祈り続けることが必要です。
第1コリント信徒への手紙の12章3節には、「聖霊によらなければ、誰もイエスは主である」とは言えないと、記されています。聖霊の働きによって、私たちが「イエスは主である」という信仰を告白する時、私たちは、この世の様々な価値観や、私たちを支配しようとする政治的なもくろみから自由にされるのです。「カイザル皇帝が主」であり、「天皇が主」ではないのです。私たちが、キリスト教信仰に基づく生き方を選択するとき、イエスを主であると告白するとき、それは、時の権力を脅かす、危険な告白になることも覚悟しなければなりません。「イエスが主である」という告白、それに伴う新しい生き方を内から支えてくれる「内在の神」、「助け主」が聖霊に他なりません。本日の聖書に書かれているように、ペンテコステの出来事は、聖霊が「激しい風」として、私たちを突き動かし、「炎のような舌」として私たちを燃焼体に変え、他者のために自分の生涯を燃やし続けるように導き、第三者が見たら「酔っぱらいの一群」のように映るのです。私たちは、自らの言葉で話し始め、言葉や人種や政治的信条の壁を打ち砕く力が与えられるのです。ペンテコステの出来事は、私たちが福音に生きる原理を示しているのです。(了)