点訳奉仕から得たもの

2010.1.31証言

山崎 多恵子

今日は、日頃私が行っている点訳ボランティアのことについてお話させていただきます。

点訳ボランティアは点訳がメインの仕事ですが、私は点字を教えることにも積極的に関わるようにしてきました。ここ10年ほど、小中学校で福祉や国際交流などの授業が行われるようになったことに伴い、点字を教えてほしいという依頼が多く寄せられるようになりました。

近年は都立高校で、「奉仕」という教科が必修となったことに伴い、高校にも出かけるようになりました。私の所属する六つ星会でも毎年小中高合わせて56校に出かけています。子供たちがいちばん喜んでやりたがるのは点字を書く作業ですが、点字を書くためには特別な道具が必要ですし、ちょっと書いてみたからといって、それがすぐ実際の役に立つわけではありません。そこで私たちの会では、必ず視覚障がい者自身のお話や身近な点字のお話等もセットにして、点字を使う視覚障がい者への理解を少しでも深めてもらい、弱い立場の人に思いやりの心を持ってほしいという思いで講習をしています。子供たちが書いた感想文をもらうと、私たちが伝えたかったことをしっかり受け止めてくれていることがわかります。

視覚障がい者と点字

 現在全国にはおよそ31万人の視覚障がい者がおられますが、そのうち点字の読み書きができる人はわずか1割の3万人ほどだそうです。盲学校では点字を教えますが、医学の進歩によって先天的な視覚障がい者、つまり盲学校に入学する子供は少なくなり、一方では糖尿病や緑内障などの病気による大人の中途失明者が増加していることも、点字習得を困難にしている理由といえるかもしれません。

 点字を読める人が少ないとはいえ、点字の果たしている役割は重要です。点字が使われ始めてわずか200年足らず。それまでは見えない人たちも普通の文字を読めるようにという教育がなされていたわけですが、浮き彫りにしたり、文字の形に作られた凸字を手探りで読

むことは大変困難で、単語程度ならともかく、長い文章など到底読めませんでしたし、第一その目的を果たすような「本」がほとんどありませんでした。

そういう状況のもとで考案された点字は、1文字が1本の指先に収まること、文字の形をたどるよりは点を探る方がずっと簡単なこと、加えて見えない人でも自分で用意に書くことができるという大きなメリットがあるのです。私たちの身近にあふれる情報、そのうち8割は視覚によるものといわれます。見えなくても音声がある程度はカバーしてくれますが、記録しておきたいこと、何回も読み返したいもの、文字でなくては伝わらないものなど点字が必要な場面は多々あります。そして忘れてならないのは、日本にはおよそ13000人おられるという盲聾者にとって、点字が唯一ともいえるコミュニケーション手段であることです。

もっとも、パソコンとソフトの進歩が障がいのある方たちの生活に大きな変化をもたらしていることは明らかです。私の知っている視覚障がい者のほぼ全員がメールを駆使し、仕事にも活用しておられます。パソコンの画面を読み上げる音声ソフト、あるいは画面と連動してその内容を手元に点字表示してくれる器具を用いるのです。盲聾の方と直接話すには指点字という手段しかないのですが、私はそれができないので、通訳者なしだと相手のてのひらにかな文字を書いて「こんにちは」というのが関の山です。ところがメールだとごく普通にやりとりできるのですから、こんなに便利なことはありません。漢字の変換ミスもほとんどないのには驚きます。

ルイ・ブライユ

点字を考案した人は、フランスのルイ・ブライユだということは、小学校4年生の国語の教科書に載ったこともありますし、子供たちにもよく知られています。昨2009年はちょうどブライユの生誕200年に当たる年でした。たまたま昨年、ある高校へ点字講習に出かけた際に、英語科のサブリーダーとしてブライユの伝記を読んでいると聞き、私も早速取り寄せて読んでみました。その本から彼がどんな苦心の末に点字を考案したか、またそれが視覚障がい者にとって最良の文字であるということが広く認められるまでには、どんなに長い時間が必要だったかということを改めて知ることができました。ここで少し彼のことをご紹介したいと思います。

 ブライユは1809年、パリから北へ100キロ足らずの所にあるクプブレ村で、馬具職人の息子として生まれました。彼が失明した原因というのは、3歳のときに父の仕事場で父の真似をして錐を使おうとして、誤って目を突いてしまったからでした。 ブライユは目は不自由だったものの、大変聡明な子供だったので、村の教会の神父が勉強を教えました。少年が10歳になり、神父はこのままでは彼がかわいそう、なんとか盲人のための教育を受けさせたいと奔走し、ついにパリ盲学校に入学させることができました。盲学校では学科のほかに、実生活に役立つよう手工芸や音楽の時間もありましたが、彼はどの課目でもぬきんでて優秀な生徒で、特にピアノ演奏が得意だったそうです。

ところで、そもそも点字はフランスの軍隊で夜間用の暗号として用いられていたことをご存知でしょうか?ルイ16世の軍隊のバルビエ大尉が1815年に点字というものを発表しています。

その後のナポレオン軍でも使用されていたということです。バルビエの点字はブライユの盲学校でも使われましたが、現在の2倍の12個の点で表すため、指では読みにくいというのが欠点でした。勉強が好きで何とか本を読みたいと願っていたブライユは、点を使うというアイディアそのものに着目。寝ても覚めても、点を使って表す文字の工夫に没頭し、3年かかって16歳のとき、アルファベットをわずか6個の点を組み合わせて表すシステムを完成させました。これは少年達の指でも簡単に触読ができ、また書くのも容易だったのです。

17歳で盲学校の音楽教師となったブライユは楽譜にも点字を使用し、その便利さを確信。3年後の1829年学内で正式に6点点字を発表しました。点字発明年はいくつか説がありますが、この1829年とするものが多いようです。しかし「盲人も普通の文字を学ぶべき」という理念に邪魔されてか、母校のパリ盲学校で6点点字が正式採用されるまでに25年もかかり、フランス国家での正式採用はその2年後の1854年で、すでにブライユが結核のために43歳で亡くなった後のことでした

日本では明治10年代に盲教育が始まり、最初はやはり凸字での教育が行われました。やがてブライユ点字を工夫して、カナを表現する方法について議論が重ねられ、フランスに遅れること50年の1890年、教員石川倉治の考案した方法が正式に採用されました。この採用の日、111日は日本の「点字の日」、ブライユの誕生日の14日は「世界点字デー」とされています。

点訳について

 点訳は活字や読書が大好きで始めたという人が多いですが、私は点字で楽譜が書けるということに興味をもったことがきっかけでした。しかし点字楽譜を手がけるには、先ず一般的な点字を習得すべきとわかり、八王子市主催の点訳ボランティア養成講座に1年通い、点訳サークル六つ星会に入会しました。八王子市で講座をやっていることや、六つ星会という会を教えてくださったのは、この教会に通い始めた頃知り合った教会員の方だったのです。その方とは今、盲人キリスト教伝道協議会(盲伝)婦人部の文書点訳や、(点字を墨字に訳す)墨訳作業を共に行っています。

点訳には一般点訳のほかに専門点訳があり、私も英語と楽譜の講座を受講しました。英語点訳はたまに担当することがありますが、楽譜点訳は大変煩雑で片手間にはできないので、今は残念ながら手がける機会はなくなってしまいました。

点訳作業というと、手で1点ずつ打ち込むことをイメージなさるでしょうが、20年ほど前から、コンピューターによる点訳が始まりました。IBMが企業として無料点訳ソフトを開発したのを始め、Windowsに変わるとその点訳フリーソフトも製作されて、点訳の世界に一大変化がもたらされました。

私たちは依頼を受けると数人で一つの本の製作にかかります。ちなみに点訳には著作権の制限はありません。1冊の単行本を点訳すると、点字書では4巻〜5巻、1000ページ以上にもなります。わが六つ星会の昨年の点訳実績は約22000ページに及んでいます。パソコンで入力した点字データは点字印刷機で印刷するほか、メールで送り、パソコン上で読むことも可能ですので、今ではインターネット上に点訳データをストックし、点訳者がアップし、読みたい人がダウンロードできるようなネットワークも築かれています。

 点訳奉仕をするようになって、パソコン操作に詳しくなり、会の運営に携わり、学校で教壇に立つなど、普通の主婦でいたらできないようなよい経験をたくさん積むことができました。

また正確な点訳を目指すために、辞書をひき、調べをつくすことによって、漢字や言葉、特に専門用語などの知識がずいぶん増えたような気がします。

しかしやはり一番の収穫は人との出会いです。盲伝婦人部長のRさんと出会い、婦人部に加えていただき、そのための奉仕をさせていただくようになったことには、特に感謝しています。婦人部の機関紙の点字原稿を墨訳していますと、そこに寄せられた盲クリスチャンの方たちの投書などから、神様への篤い祈り、深い信仰が点字11点から直接伝わってくる感じで、いつも心を熱くさせられます。

これまで手がけた点訳などの奉仕に対して、どれだけたくさんの「ありがとう」を受け取ったかしれません。「できるときにできること」をしただけですが、自分のしたことを評価し、心からありがとうを言ってもらえること、こんなに嬉しく報われることはありません。ですからありがとうを言いたいのはむしろ私なのです。これからも少しでもたくさんその言葉が聞けるように、そしてこちらからも言えるように、頭と体力の続くかぎり、地道な奉仕を続けていきたいと願っています。                            《完》

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