噴火山の女

山本三和人

 イタリアのマニアニが演出した「噴火山の女」という映画に旅役者を追って村を出た女性が捨てられ、傷ついて故郷に帰ってくる場面があります。彼女は傷ついた心に主の慰めを得ようと思って教会へ行きますが、黒い服を身に着けた婦人たちが、教会の入口を塞ぐように立ちはだかって、彼女に冷たい視線を浴びせます。

 彼女は、石畳のうえにくずおれて、泣きながら「ここでいいです。主の愛はここにも届きます」と言って主の慰めを祈ります。

 さて、わたしたちは「おりを得ても得なくても、みことばを宣べ伝えるように」召されて信仰生活を営んでいますから、自分で意識して自分を閉ざしたり、世を締め出したりするようなことはいたしません。しかし、知らず知らずのうちに、環境世界から孤立するようなことがあります。「信仰を守るために」という理由で世から孤立することがあります。

 「過ぎたるは及ばざるがごとし」という格言がありあmすが、過剰な信仰意識や召命意識や選民意識は、「信仰を守るために」という理由から得てして信仰者に閉鎖的な姿勢をとらせます。その結果、ほんとうに主の愛と慰めと励ましを必要とする人を、教会の外に締め出しでしまいます。

 わたしたちは、わたしたちを包む環境世界に向かって開かれなければなりません。そのためには、わたしたちのいだいている信仰意識や召命意識や選民意識が、どのような理由からしても自分を閉ざしたり、まわりの人々を締め出したりする口実にならないように、注意しなければなりません。

 「信仰を守るために」という信仰意識は、信じなければならないもの(神)も信じていないのです。「わたしは神を信じて断じて疑わない」というような人は、自分のからだの、恐らく胸(心)か腹(意志)か、すなわち絶対依存の感情か道徳意思の働きで、そのように信じているのです。

 「自分は神を信じていないと思っている人よりも、「自分は絶対に神を信じていると思い込んでいる人のほうが、より大きな過ちを犯す」とは、K.バルト教授の言葉です。前者には初めから神を信じていませんから、神でない神を拝むようにあんる機会が少ないのですが、後者には神でない神をつくって拝む危険性が沢山あります。

 自分の宗教心を絶対化する人が、自分を人神に祭り上げるのに時間はかかりません。それは神への信仰や神の選びを、人間的に条件づけるからです。自分には神の召命や選びに値する値打ちがあるからと神に召され、神に選ばれたと思いがちだからです。その思いは独り善がりのうぬぼれと特権意識に導きます。
 ユダヤ教徒やパリサイ主義者たちがそうでした。

 わたしたちが、わたしたちを取り巻く環境とそこに住む人々にたいして開かれた教会を形成するには、まず、わたしたちが環境世界に向かって自分を開かなければなりません。一切の偏見と差別をなくし、すべての人と平和的に共存しなければなりません。

 神の召命や選びが、天職意識と平等意識を伴う人類平等の土台であるという認識に立つことが必要です。かりにも教会の入口に立ちはだかり、石畳の上で泣き崩れて祈る彼女に、冷たい視線を浴びせかけるようなことがあってはなりません。

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