破壊と創造

(1982.9.19)

山本三和人

 今日、つまり1982年9月19日は、私たちロゴス教会の終わりであり、始まりの時でもあります。
このような日を迎えるにあたって、もう一度私たちの信仰生活の基本的なあり方を考えてみたいと思います。
よく考えてみますと信仰生活はその毎日が、否、時々刻々が一つの終わりであり、始まりなのだということができます。

 瀧沢克己氏によれば、カール・バルト教授は、人から「お元気ですか」とか「お変わりありませんか」という挨拶を受けると、いつも「イヒ リーベ エスカトロギッシェ」と答えたそうです。

 このことばは、「わたしは終末論的に生きている」という返事なのですが、バルト教授においては生きているかぎりは四六時中、絶えず一つのことが終わり一つのことが始まっていたことを示しています。私たちの信仰生活は、このような認識と自覚に基づいて展開されていきます。

 ところが、私たちは普通、時々刻々の現象の変化をちょうど印画紙に焼付けられた写真のようにいったん停止させてみる習慣があります。そして自分の生活の中の一つの終わりと始まりを、遠い近いの差はあるものの、おしなべて過去の出来事としてとらえ、表現しています。「私は何年の何月に救われました。その日、古い私は滅んで、全く新しい私が生まれました」といったようなクリスチャンのことばをよく耳にします。しかし神の恵みや救いの出来事を、人生という時の流れの一点に固定して理解したり、誇らしげに語ったりするのは、必ずしも正しいとはいえません。

 神の恵みとそれに基づく救いとは、常に現在の出来事として受けとめるべきものであり、さらにこの点を強調すれば、「きのうやおとといが恵みのときであり、救いの日にあたる」のだということになります。ある人が、「過去形で語られる愛ほど悲しいものはない」といいましたが、神の恵みや救いに対する一般的理解もそれと似たようなところがあります。過去形で語られる信仰ほど悲しいものはありません。

 このことについてパウロは、「だれでもキリストにあるならばその人は新しく造られたものである。古いものはすぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」と記しています。「つくられた」「すぎ去った」「新しくなった」これはみな過去形のようにみえますが、実は現在完了形のことばであり出来事の継続を表しているのです。

 これはキリストにある生活の中では、絶えず一つのことが始まって、一つのことが終っていくことを示すことばであるということができます。ことばを代えていえば、「信仰生活は静的なものではなく、動的な、それもきわめてダイナミックなものである」ことを示しているのです。

 ですからパウロは、「たとえわたしの外なる人は滅びても内なる人は日毎に新しくされてゆくのである」と述べ、私tあちの中における神の日毎の破壊と創造を証しするのが信徒のつとめであると説いています。

 しかし、この中でただ一つ心に留めておかなければならないことは、実際に私たち自身の中でこの破壊と創造がどういう順序で行われるか、ということです。
 人生にも自然界にも時々刻々の変化が見られます。常に何かが終って何かが始まります。それは、終ってから始まるのでしょうか。それとも始まってから終るのでしょうか。または破壊が創造に先行するのでしょうか。それとも創造が破壊に先行するのでしょうか。

 毛沢東は文化大革命のとき、「破壊せよ、破壊すれば必ず新しいものが生まれる」と叫びました。たしかに建物をこわさなければ新しい建物は建ちません。現実の社会にはこのように破壊が創造に先行する場合もあります。しかし例えば夏が終って秋がくるのか、秋が始まって夏が終るのか、こういうことになると人間にはよく分かりません。この場合は、ある季節を起点と定め、そこから起算してみなければいったいどちらが先でどちらが後かは分からないのです。

 では、信仰生活び終わりと始まり、破壊と創造はどちらが先行するのでしょうか。それはいうまでもなく神の恵みによる新しい創造が先行します。あたかも太陽が昇って闇が退散するように、また新しい生命が卵殻を破るように、私たちの中における神の創造のみ働きが、私たちの外なる姿を破るのです。こうでないと神の恵みそのものが人間の行為によって条件をつけられることになり、恵みは神の真実を表していないことになります。

 私はロゴス教会がここ目白での伝道生活に一つの区切りをつけ、八王子に向かって歩みだそうとしている今のこの姿こそ、まさに神の意図された「創造と破壊の摂理の具現化」にあたるものではないかと、ある種の誇りと確信すら抱いているのです。

 ですから私たちの八王子移転は、けっして目白での戦いに敗れて都落ちをする惨めな出来事の表れではありません。それどころか、今の私たち一人ひとりの姿は、「神から与えられた新しい伝道のヴィジョンの達成」という壮大なロマンの出発点に立ち並ぶりりしい若武者の姿でもあります。これらのことを充分心に留めて、私たちはこの得難い日に遭遇させてくださった神の深い配慮と恵みを心から喜び、勇んでそのご計画にある新しい伝道の地へと出発したいと思います。

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