羊と狼 (1968.8.4)
山本三和人
パウロは異邦人伝道の使命を帯びて、ギリシャ各地からローマ、イスパニアにいたるまでキリストの福音を広めてまわりましたが、常に一つの不安に捉えられていたようです。それは一生懸命になって伝えた神のことばが、自分が去った後で、かきみだされ、ゆがめられはしないかということでした。
比較的古い年代に書かれたと思われるガラテヤ書をみると、恐れていることがあまりにも早くやってきたので、彼は半ば感情的になった様子さえ見受けられます。パウロは「わたしは、君たちがこんなにも早く私の伝えた福音のことばから、異なった教えに走っていくのを怪しむ。わたしの伝えたところをかきみだすものは、それが誰であっても、たとえ天使であっても呪われるであろう」と申しました。
エペソ伝道の場合も、彼は「わたしが去った後で、凶暴な狼が君たちの中に入り込んできて、君たちの群れを食い荒らすことを知っている」と述べています。
さて、「信徒を食い荒らす狼」とはなんのことでしょう。それは異教世界全体を意味することもありますし、教会内の異端を意味することもあるようです。
キリストは弟子たちを派遣するとき、「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊を狼の中に送るようなものである」といわれました。この場合の狼とは、弟子たちを包む非キリスト者の世界のことです。すなわち、「キリスト者が非キリスト者の世界に共存するのは、羊が狼の中にいることと同じだ」というのです。しかし注意しなければいけないことは、キリストのこのようなことばをキリスト者の人間的、あるいは宗教的偏見の正当化のために用いてはならない、ということです。
たとえば、キリスト教のある教派でつくられたカレンダーの絵に羊と狼を同じ一本の杭につないだ絵がありました。それには『信徒と非信徒の結婚』という題がつけられ、「信者が信者でないものと結婚することは、一本の杭に羊と狼をつなぐのと同じこと、狼(不信者)は必ず羊(信者)を食い殺してしまう。だから信者はけっして不信者と結婚してはならない」と説明してありました。
これは恐るべき偏見ですが、クリスチャンの中には、このような偏見を抱いている者が少なくありません。キリスト者のことばが、このような偏見を正当化するために用いられるとすれば、それはキリストに対する背信であるばかりでなく、神の愛の対象としての全人類に対する侮辱でもあります。いったい、自分たちのことを悪賢い狼呼ばわりする人のことばに耳を傾け、心を開き、これを素直に受け入れる人がどこにいるでしょうか。自分だけ神さまの良い子になって、自分以外のものに悪人のレッテルを貼り付けるということは、実は片寄り見給うことのない神の心を曲げて、神に対する不義を犯すばかりでなく、隣人の心を深く傷つけ、あげくの果てには隣人を失うことになるのではないでしょうか。
こう考えますと、聖書の中の羊と狼の記述は、善と悪のシンボル、あるいは正義と不義の象徴としてでなく、むしろ力と非力のしるしとして用いられているのだと考えています。そのことを裏付けるように、ローマ帝国の強大な軍力、経済力、あるいはギリシャ世界の膨大な哲学体系に対して、キリストの弟子たちの力はまことに小さいものでありました。
人が戦いに場にのぞむとき、ごく一般的に考えて、そこに最も必要なことは、相互の戦力を分析し力関係を正しく評価するということです。いくら自分の主張に自信を持っていても一の力で百の力に抗することはできません。百の力を倒すためには一の力が百の力になる時を待たねばなりません。キリストの弟子がどれほど強い信仰を持っていたとしても、また、どれほど強く一致団結していたとしても強大なローマの軍事力、政治力、経済力を覆すことはできませんし、ギリシャの哲学に抗することが出来るはずがありません。決定的な戦いを挑むには、先ず味方の戦力の充実をはからなければなりません。ですからキリストは、「羊を狼の中におくるようなものである」といわれた後で「だから蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」とことさらに念をおしていわれたのでした。
蛇はその腹を地面につけていますから地熱の変化を敏感に感得します。そして大地震のような天変地異の難を免れます。キリスト者は蛇のように鋭敏な感覚をもって時代と世界の動向を感知し、お互いの力の関係をみきわめ、鳩のように素直に、自分のペースと戦力の増大に努めなければならないのです。すなわち、すべての国の人々を弟子にするために偲びがたきを偲び、耐えがたきを耐えて、地味な伝道を続けなければなりません。
このことについて、もう少し違う例でお話ししてみましょう。それは「現実の世界は、過去においてある種の力の原理から運動のエネルギーを与えられてきたし、そrは現在も続いている」ということと関連があります。
たとえば、Aの民族とBの民族の間に引き起こされる民族間の生存競争、あるいは民族内部に起こる階級闘争の帰結は、いずれも力の原理に基づいています。かつてはヒトラー、ムッソリーニ、それに日本の軍国主義者たちもそうでした。そして今は米国とソ連が飽くことのない核戦争によって、こういう世界の真っ只中でキリストの福音の宣教に携わる、といことはまさしく狼の群れの中に羊が放たれることにほかならないのです。
私たちは「狼」ということばを世の中の力を見くびったり蔑んだり、危険視して近づくことを禁じたりすることのために用いてはなりません。むしろ一般世界が保持している力の優位性を明確に認識し、そこに入っていく私たち自身の非力さを底の底まで自覚し、謙虚な思いをもって、人との協力と祈りによる支えを神に願うようにすることが必要です。
次に狼ということばが、教会内の異端の意味で使われていることについて触れてみましょう。
というのは、パウロが心配している狼は、あきらかにこの教会内の異端のように思われるからです。「わたしが去ったあとに凶暴な狼がやってきて、教会を荒らすことを知っている」とパウロが述べた凶暴な狼とは、異教世界の反キリスト者のことではなく、むしろエルサレムとの深いつながりをかさにきて、横柄な振る舞いをする教会人のことです。パウロの「信仰によってのみ義とせられる」という主張に対して「律法の行為を伴わぬ信仰は無力である」と唱え、律法の行為こそ人に本当の救いをもたらすと主張していたエルサレムの人々、またはエルサレムの息のかかった人々のことをパウロはむしろ危ぶんでいました。
この場合も羊と狼は、善と悪のシンボルというより、福音と律法のシンボルと見るべきであります。狼は力と自力を意味し、人間が律法の行為によって救われる、と考える精神が<オオカミ>をもって贖われ、救われるという信仰が羊によってシンボライズされているのです。ですから凶暴な狼が入り込んできて、弱い羊を荒らすということは「福音主義の世界に律法主義が入り込んで福音主義を荒らす」ととってもさしつかえないと思われます。
このようにして、、私たちに課せられた二つの戦いは、キリスト教を包む異教世界との戦いと、キリスト教の内部における異端との戦いです。そしてこの第二の戦いは、さらに自分の内部に対する非福音的なものへの戦い、つまり厳しい福音の理解に対する自己批判ということになります。第一の戦いでは、蛇の如く聡く、鳩のように素直なることが求められ、第二の戦いでは「天使も呪われよ」というほどの厳しさが要求されるのです。