神の真実が見えるとき

(「LOGOS No.11」1990.4)

山本三和人

 「家からでかけることは、必ずしも必要ではない。机についたままで、耳をすますのだ。いや待つこともない、ただじっとひとりでいるのだ。そうすれば、世界は自分の仮面を脱いでくる。」(フランツ・カフカ)

 ここに「仮面を脱ぐ」とあります。善人づらをしている悪人が、なにかの折に正体を現したりする時に、「仮面を脱ぐ」と言いますが、ここでは、ただ真実の姿を現すということで神学の用語では「自らを啓示する」という意味に使われる言葉です。

 神さまが仮面を被って、その素顔を隠しておられるというのではありません。神さまに仮面を被せているのは私たち人間です。私たちが、自分の願望や期待で描いたり作ったりした仮面を被せて、神を見ようとしているだけのことです。別の言い方をすれば、私たちの目が、主観の結ぶ幻想に遮られて、真実が見えないのです。

 一切の人間の主観を交えないで、受動的な姿勢を整えて待てば、人も世界もその真実の姿が見えてくるというのです。私たちが、その中にあってその与える物によって生きている人間の世界でさえ、求める者には真実の姿は見せません。まして神においておや、です。

 神は人間の夢や、理想の実現を目指して求めたり、待ったりする者には、決して自らを啓示なさらないし、語りかけてもこられません。たとえ啓示されても、語りかけてこられても、主観の幻想に遮られている私たちには、そのお姿は見えないし、そのお言葉は聞こえません。

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