キリストにある一日は千日にまさる

1993年、新年メッセージ (「LOGOSNo.39」1993.1 )

      

        山本三和人   

「時とは何か、誰も問わないならわたしはそれを知っている。しかし誰かが問うて、これに説明を加えようとすれば、わたしは何ひとつ知らない」

 これはアウグステイヌスが『告白録』に書いている言葉です。時間、それは誰でもが持っているもの、否、誰にもあるもの、その意味で誰でもよく知っているもの、だから誰もあえて問おうとはしないもの、だから知っていると思いこんでいるもの、しかし、誰かに「時間とは何?」と聞かれて、それをわかりやすく説明しようとしてみると説明が出来ないもの、すなわちわたしたちがなんにも知ってはいないもの、それが時間です。

 彼は時間を過去と未来と現在に区切って時間の本質を時間であり完全に存在の領域から姿を消したものゆえ「無」であり、未来とはまだ存在の領域に到達しないものであるから「無」である。そして現在とは今の存在が無限に分割される限り過去と未来となり、瞬間としての現在もまた「無」に帰します。過去は無であり、未来もまた無であり、無と無の間に介すると考えられる現在もまた無であると言います。

 時間が無であるということは「人生は無である」ということです。なぜかというと「時間は人間の存在様式」だからです。詩篇の記者は、「あなたの目の前には千年も、過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです」(90篇4節)とうたい、またハイデッガーは「生とは無意味と空虚とより来る根源的な不安である」と述べています。では、人類は生の空しさを知るだけでその空しさを克服することは出来ないのでしょうか。

 この無からの脱出の道は二つあります。一つは自然の一部に自分を見出し、生物界の法則に身をゆだねて生まれてから死ぬまで生きればよいのです。死をおくらせる必要もないし死に急ぐ必要もない。他の動物のように本能だけで生きればよいのです。もう一つの道は、この人生や時をその内側から改造することが不可能であるとしても、外側から有意義なものにつくりかえることが出来ることです。つまり全く〈ゼロ〉に等しい人間の生の裏側に、神の保証があるという認識です。

 聖書は「神は独り子を賜うほどにこの世を愛し給えり」と伝えます。キリストにおいて世に来たり給うた神は「時は満てリ」と宣言しました。
今まで無意味であった時が、意味を与えられたと言うことです。ですからキリストによらざる歴史の中では「千歳もすでに過ぐる昨日の如し」でしたが、パウロは「人もしキリストにあらば新たにつくられたるなり。古きは過ぎ去り、見よ新しくなりたり」と叫びました。

 詩篇の記者は「エホバの大庭に住まう一日は千日にまさる」とうたっています。「エホバの大庭」を新約の光に照らして解釈するならばキリストということです。故に「キリストにある一日は千日にまさる」という意味にとれます。

 1993年はキリストにある年であるように、キリストにある神のめぐみを冠として戴く年であることを深く自覚して歩みたいと思います。

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