心のやすらぎ

(1992年11月発行『ろごす草紙』から)

山本三和人

 それはもう何十年も前、わたしが洗礼を受けて間もない頃のことです。ある有名な盲人伝道者が特別伝道集会の講壇に立ち、「お寺の鐘はGONE と鳴り、教会の鐘はCOME IN と鳴る」と、話しているのを聞いて、感心したり、反発を覚えたりしたことがあります。

 つまり、その伝道者によれば、お寺の鐘のGONEという音色は、何もかもが行ってしまったことを伝える音であり、そこには、はかなさはあってもやすらぎがないというのです。
 わたしは、「さすがにうまいことをいう」と、感心すると同時に、「でも、お寺の鐘のGONEは、聞きようによっては、人間のすべての不幸や悲しみがはるか彼方に行ってしまったことを伝える音にも聞こえるし、もしその音をGO ONと聞きとることができれば、それはわたしたちにたゆみない前進を促す音にも聞こえるのではないだろうか」と、ちょっと反発めいたことも感じていました。

 歳月が流れて、わたしも今では70の坂を越えました。しかし、今でもわたしはこれと同じようなこと、つまりイエス・キリストの”COME”と”GO”について考えさせられています。
 すでに良く知られているように、ご自分が伝道を始められた頃のイエスは、出会う人々に向かって必ず”COME”と語りかけておりましたが、復活されてからは逆に”GO”といわれるようになりました。

 ヨハネによる福音書を読みますと、復活されたキリストに出会い、喜びのあまり、「ラボ二(先生)」と叫んで近づいてきたマリアに対してキリストは、「わたしに触ってはいけない」と、言っておられます。

 また、マタイによる福音書にも、マグダラのマリアと、もうひとりのマリアは「復活のキリストに近づき、そのみ足をいだいて拝した」と、ありますが、そのときキリストが彼女らに言われたことは、「恐れることはない。行って、兄弟たちにガリラヤへ行け、そこでわたしに会えるであろうと告げなさい」と、いうことばでした。

 これらのことを考えますと、わたしたちは人間イエスのやさしい、”COME”と、神人キリストの厳しい”GO”の間に立たされていることが分かります。そしてわたしたちはさまざまな思いわずらいを抱いて毎日の生活を営むことで疲れきっていますから、”GO”という厳しいことばよりも”COME”というやさしいことばの方に強く引きつけられるのです。

 しかし、ここで見逃してはいけないことは、復活のキリストの”GO”は、人間イエスの”COME”ということばと同じように、暖かい、あふれるほどの思いやりの心から湧き出たものである、ということです。
 処刑前夜、愛する弟子たちに背かれ、ただひとり孤独な死を遂げようと心を定めて、イエスは弟子たちに言われました。

   今夜、あなたがたは、わたしにつまづくであろう『わたしは羊飼いを打つ、そして、羊の群れは散らされるであろう』と
   書いてあるからである。しかし、わたしはよみがえってから、あなたがたよりさきにガリラヤへ行くであろう。

 これは戦いに敗れた武将が、生き残りの部下を連れて、秘かに都落ちをする決意を述べたことばなどではありません。背教者を追い、裏切者を求めて、ガリラヤはおろか地の果てまでも行く、という並々ならぬ決意を示すことばであり、逃亡者の先回りをして、彼らに対する愛と信頼を証(あかし)しようという固い決意を述べたことばでもあります。

 実際、このようなみことばに触れ、人がつまづき、裏切り、逃亡しても、キリストがその人をみすてることはないのだ、ということは、ゲッセマネの園での出来事を思い起こしてもよく分かります。一諸に祈るように求められていた弟子たちが、不覚にも眠りこんでしまった姿を見たイエスは、そのことを責めるどころかむしろ、「あなたがたの心は熱しているが、肉体が弱いのです」という思いやりのあることばを投げかけているのです。

 イエスは、人間の弱さというものを底のそこまで見抜いていました。「たとえほかの者がつまづいても、わたしはつまづきません。わたしは牢獄でも死でも、よろこんでお供をします」と、激しい口調で言い放ったペテロでさえ、この数時間後には主従関係を打ち消して去ってゆくことを、イエスははっきりと予見し、その予見と深い悲しみの渕に立ちながらなおかつ、「しかし、わたしは、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」と言われたのです。

 このことを心に留めて、私たちがそれぞれの耳を傾けるとき、復活のキリストの言われた「行け」ということばは、冷たいどころかむしろ暖かい思いやりの心から語られているのだということが分かります。つまりこのことばのなかには、愛に値しないものにすら与えられる愛の本質が啓示されているのであり、このみことばが持つ「愛の深さ」だけが、わたしたちの心を閉ざす不安の黒雲をあとかたもなく晴らしてくれる手段なのです。詩篇の記者は、こうして与えられる魂のやすらぎを次のようにうたっています。

            わたしはどこへ行って、あなたのみ魂を離れましょうか。
            わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
            わたしが天に昇っても、あなたはそこにおられます。
            わたしが、陰府(よみ)に床を設けても、あなたはそこにおられます。
            わたしがあけぼのの翼をかって海の果てに住んでも、
            あなたのみ手はそのところでわたしを導き、
            あなたのみ手はわたしをささえられます。

 わたしたちはペテロのように人間の弱さから、主に背いてそこから逃げ出すことがあるかもしれません。しかし、わたしたちの逃亡の旅が地や海の果てまで、それどころかたとえ陰府の世界にまで続いたとしても、キリストは、いつもわたしたちの旅先にさきまわりして、大いなる愛のみ手を広げていてくださるのです。

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