道を掘る
(1983.3.20 山本先生宅での礼拝)
山本三和人
「君、そこで何をしている」
「道を掘っている。ぼくは進歩が必要だから」
これはカフカの『実存と人生』の中に出てくる会話です。
さて、私はこの頃、自分では結構忙しい日々を送っている、と思っているのですが、いろいろな人から、「先生はいま、何をなさっていますか」と、聞かれることがあります。そういうとき私は、「これでも結構忙しいんですよ」と、きわめて曖昧に答えてしまうのですが、実はそう聞かれたときにはいつも、「道を掘っている。ぼくには進歩が必要だから」という、カフカのことばを思い起こしています。このことばは、聞きようによっては大変キザっぽいのですが、現在の私の心境をこれほど良く表していることばは他にありません。
実際の話、私はいま自分が真剣に取り組まなければいけないことは、文字通り「道を掘る」ことだと考えています。なぜならば、私自身がいま歩もうとする道の行く手には、現実にいくつもの障害が横たわっていて、私の歩みを妨げようとしています。私は今その障害と闘っています。中でも、最も手ごわい障害の一つが、私の<年齢>です。
といっても、「としをとり過ぎて身体がいうことを効かない」といっているのではありません。年齢というよりか年齢と共に私のうちに蓄積された経験だとか、それに基づく「ひとりよがり」が心配なのです。
私も他の老人と同じように荷いきれないほどの経験の重荷をひきづっています。今まではこの経験が、私の前進のたすけになることがありました。しかし、周囲の環境がめまぐるしく改まっていく今日の情況に中では、経験そのものが新しい認識と進歩の妨げとなります。
自分の経験の枠の中でしか物事がはかれないため、日毎に改まる環境世界から弧絶してしまって、立ち往生してしまいそうです。しかし74年もの間に私の中に積もった旧い時代とその世界の垢を洗い落とすのは並大抵のことではありません。聞いたり、読んだりするほかに、新しい情報の収集にも挑まなければなりません。
私にとっては、これから文字通り74歳の手習いが始まるのです。