人間はただ神の前においてのみ平等である

(「LOGOS No.01」1989.4)

山本三和人

■人間の平等とは
 「コリント人への第一の手紙」(これは聖書の中におさめられているパウロの書簡のひとつです)の中に、「この世は、自分の知恵によって神を認めるに到らなかった。それは、神の知恵にかなっている」ということばがあります。このことばの中に、人間の平等の秘密が語られているのです。人間は知恵も力もちがいますから、人間をくらべて平等の権利を確立することはできません。人間はただ神の前においてのみ平等と言えるのです。「この世は、自分の知恵によって神を認めるに到らなかった」とありますように、どんなにすぐれた知恵をもってしても、神を知るということはできません。

 自分の知恵や力で神を知り得ないということでは、学者も無学の者もありません。神の前では、学者が学のない者をさげすむこともできませんし、無学の者が学者にこびたり、ひけめを感じたりする必要はありません。もし、学者が自分の理性の働きで神を知り得ると考えて神を探したり、求めたりして神を信ずるようになったりしたら、それこそ偶像礼拝すなわち神ならぬ神を拝することになります。

■神の律法
 このようなことは認識論の領域で言えるだけでなく、倫理道徳の領域でも言えます。律法はその99パーセントを行っても、残りの1パーセントに背いたら、その全部も背いたことになるように仕組まれていますから、誰も律法にある神の要請に応え得る人はいません。もしも自分は律法に忠実な生活をしていると思って、律法主義者のように他を見下し、危険視して他を遠ざける人がいるとしたら、その人こそパウロが言っているように「律法に誇り、律法に安んじる」人であり、神の律法を重んずるかに見えて、実はそれを軽んじている人です。

 神の戒めに応えることができないという論では、律法学者もなければ俗人もありません。神の前では、人間はみな同じです。本当に神を信じ、神の律法を重んずる人は、パリサイ人のように世俗を軽んじたり、世俗の人々との交わりを禁じたりはしないでしょう。律法を行うことで自分だけが神さまに清め分かたれていると思っている人だけが、その清さを守るために世の人々をさげすむのです。しかし神の前では人間はみな平等です。

このように人は認識論の見地からも、倫理道徳の見地からも、平等の意識を抱いて偏見と差別の意識から解放されるのは、ただ神の前においてだけです。

■神の存在
 さて、ここで認識論の領域のことをもう少し詳しく話します。私は神の前では学者もなければ無学者もない、と言いました。しかし自分の知恵で神を知り得ると思っている学者はあまり多くはいあに。もともと学者の多くは神など信じてはいませんから、神を知ろうとも探そうともしません。しかし、ここで是非、注意していただきたいことは、神の存在を認めて自分の知恵の働きでこれを知ろうとする人も、神の存在を認めないで、神を知ろうとすることは馬鹿げたことと思う人も、全く同じことをしているということです。

 もともと神は霊であり、人間の理性の働きで探し当てたり、認識したりできるものではありません。ですから、神の存在について肯定的な考えを持ったとしても、それを実証することはできません。しかし、実証の手続きを取らないで主張する有神論には最低の学問的確かさもありません。

 これと同じことは無神論についても言えます。神は霊であって人間の理性の働きではその存在を確かめることもできませんが、その不在を確かめることもできません。神の不在についての実証手続きを経ないで行われる神の不在についての主張には、学としての確かさなど少しもありません。ですから、オーギュスト・コントー派の実証主義者たちは、神の存在については肯定的な見解も否定的な見解も述べませんでした。

 ポール・サルトルもまた『唯物論と革命』という論文の中で、「唯物論者は、唯物論は無神論であると主張することによって、唯物論のまとうている学としての衣を自らの手でやぶっている」と述べています。どうしてでしょう。唯物論は厳密な意味での学である。しかし実証することのできない神の問題をその中に取りこむことによって、その実証主義者としての一貫性を失うというのです。従って、その中に神を取りこんではならないという点では、観念論も唯物論も同じです。

■人神化の危険
 ですから、キリスト者が唯物論者のことを無神論者だと言ってこれを敵視してこれに戦いを挑むのも、また唯物論者がいるかいないか分かりもしない神を信ずることは非科学的であり、馬鹿げたことであると言って宗教や宗教を信じる者を敵にまわして戦うことも、偏見と差別の思想にもとづくことであり、決して正しいことではありません。正しいのは何時も自分であり、間違っているのは常に相手であると思うことは、自分の思想や主義を絶対視することであり、自らを人神化することであります。

 こうして形成された人神がまわりの者に服従を要請し、その要請に従わぬ者に裁きの鞭を振るようになれば、冷たい戦争や熱い戦争に発展し、地球上の全生物の未来が奪われることになります。ですから自分を人神化することだけを絶対にしてはなりません。

■平和的共存
 しかし、先のパウロの手紙の中で彼が「知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵の愚かにされたではないか」と叫んでいるのを聞いた人の中には、パウロもまた知者や学者などに対してある種の偏見を抱いていたと思う人があるかもしれません。しかし、パウロはギリシャ哲学を身につけた学者ですから、同じ学者に対して偏見を持っていたとは考えられません。

 パウロは、同じ書簡の中で「いったい人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の霊以外に知るものはいない」とのべています。すなわち人のことは人にしかわからないように、神のことは神にしかわからない。知者や学者が学のない者よりも、神についてより多くを知っているなどということはできないということであり、それは知者や学者の無学の者に対する偏見を戒めたことばです。

 私たちが今おかれている世界のこの状況の中で、最も大切なことは、人類からその未来を奪うことにつながる争いのもとになるような言動を慎むということです。民族的偏見も、職業的偏見も、男女の性的偏見も、またイデオロギーや宗教的偏見も、今この世界の状況の中ではあってはなりません。平和的共存の道だけが私たちの歩むべき道です。

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