忍耐と待望

山本三和人

 クリスチャンの信仰生活を端的に表すとすれば、それは「待ち、望む」ことだと思います。

日常の生活のなかでの私たちは、いわば旅人であり、宿借り人でもありますから、絶えず「約束された日」を目指して歩き続けているわけですが、その精神的な支えとして必要な姿勢が「待つ」ことであり「望む」ことなのです。もし、これらのことを取り去ってしまいますと、それこそ私たちのクリスチャンとしての信仰生活が失われてしまう、といっても言い過ぎにはならないと思います。

 フランツ・カフカが書いた作品の中に『代弁人』という短編があります。この作品のなかでカフカは、ある何者とも知れない人物を一人登場させ、その人物が、自分自身の代弁人を求めてあちらこちらをさまよい歩く状況を、彼独特の手法で描き出しています。
 いったい、カフカがその所在を求めている代弁人とは誰のことなのでしょうか。これは非常に興味深いことではありますけれど、なお、この作品を読み続けますと本当に代弁人が必要なのは、実は私たち自身なのだ、ということが分かってきます。

 つまり、この代弁人とさきほどの「待ち、望む」ということばと重ね合わせて考えてみますと、人間にとっての代弁人は神であり、私たちはその方にめぐり会える日を待っている、ということになります。そして神は、私たちがなんの思いわずらう必要のない「完全な代弁人」でありますから、私たちはそのことをまた、より一層強く待ち望むわけです。

 ではどういうときに人間が代弁人を待ち望むかといいますと、それはある特殊な空間や状況の中でというより、私たちの現実の生活そのものの中により強く期待されている、ということができます。
 ことさら例として持ち出すまでもなく、親と子の断絶あるいは亀裂ということばに象徴される今日の人間関係は、単に「話せば分かる」では埋められない深い溝に隔てられており、そこには恐ろしいほどの不安が実在しています。この状況の中では、もはや人間にはその深い溝を埋める手段はありません。もしあるとすれば、それは代弁人、つまり神の手に委ねることのほかは、私には考えることができないのです。

 しかし私たちは、知識としてはそのように理解していても、ほんとうの弁護人を求めてあちらこちらと駆けずり廻った結果が思わしくないとき、自分の行為を中断し、自己保全の意味合いから精神的な自殺を試みることがあります。それは、「あきらめ」という意識表現です。

 例えば、言うことを理解しないで非行に走る子どもに対して、親は自分のことばで語ることをしなくなり、「もう、いくらはなしをしても仕方がない。これが世の中なのだ。私の気持ちはどうせ子どもには理解されないのだし、結局人間は孤独を背負って死んでいくのだ」と、一見悟りすましたような論理を自分自身に無理やり押しつけて、精神的な自殺をはかるようになるのです。今、私たちの社会を現実的に取りまいている若者や老人の自殺はまさにそのことの一端を証拠立てている、と考えられないでしょうか。

 まさに、この一点において、神という代弁人が存在する意味と、はかり知れないほどの価値が生まれてくるのです。神という名の代弁人は、人間がどのような状況の下に置かれていたとしても、常に厳正中立の立場を守り、適切な助言と判断を与えてくださいます。それがなければ、人間の世界はどうにも収拾がつかなくなり、混乱の極におちいるのは、火を見るよりも明らかなことです。

 私たちは「あきらめてはいけない」のです。代弁人を探すことをあきらめ、現実の灰色の状況の中に首までどっぷりつかって、精神的な自殺に走ってはいけないのです。

 それこそカフカがいうように、「道を歩きはじめたらどこまでもその道を歩き、扉を開き、階段を上がり、限りなく上がり、家に入ったら部屋から部屋へ・・・さらに階段が続き、その階段は足元から伸びて、伸びて、さらに・・・」という前向きの生き方が私たちには要求されているのです。いったいカフカのいう、「足元から階段が伸びる」とはどういうことなのでしょうか。この場合の階段というのは、エスカレーターを思い起こしていただければ良いのです。つまり、いまでは「ここでなければまたあちら」式に右往左往して探し求めながらも見つけることができなかったものが、私たちが道を定め、歩み続けることによって、ちょうどエスカレーターのようにその目的地へ運んでくれる。カフカはこのことをこそ、『代弁人』の中で私たちに訴えたかったのではないかと、私は考えるのです。実にこれはもう、<信仰の境地>だといっても良いのではないでしょうか。

 繰り返して強調したいのですが、例えばどのようにつらい、苦しい状況が人間を取り巻くようになったとしても、私たちは「あきらめてはいけない」のです。右往左往して、ほんとうの代弁人を探す、という目的を見失ってはいけないのです。
 私たち自身が、それこそ現実のうめきの中であえいだり、よろめいたりしながらも、一切を神にゆだね、どこまでもどこまでも神がいたまうであろうその道を進むべきなのです。
 そう、ためらわずに、まっすぐにー。

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