人と言葉
山本三和人
聖書の中に「初めに言があった。言は神とともにあった。」と書いてあります。ここにある言(ことば)というのが、原語ではロゴスという言葉であります。
言葉とは表現の手段でありますが、神の場合には、神の言と神の人格とが完全に一致しているというのです。ちょうど同じ長さの半径で描いた二つの同心円のように、神の言と人格とは寸分のずれもなく、ぴったりと重なり合っているというのです。
そうであればこそ、これこそ私たちの人生の目標であるということができます。なぜなら、「人と言との完全な一致」、何と素晴らしい目標ではありませんか。
人間の場合は、言葉と人との間には大きな開きがあります。イギリスの有名な桂冠詩人テニスンは、「言葉は思いの半ばを隠す」と言いました。テニスンほどの言葉の達人でも、自分の思いや感情をありのままに、あますところなく、表すことができませんでした。
言葉に表現される「私」と「私自身」との間には、深いみぞがあります。否、そこには何の関係もないことさえあります。作家(人)と作品(言葉)との関係において、両者は元来一つであるべきだと思われますが、実際には二つが分離してしまっていることが多いようです。
すなわち、作家の自己表現であるべきはずの作品が、作家の「在り方」や「本質」とは無関係になっていて、作家はそれが作品であるというただそれだけの理由で、作品に対する責任から逃れている場合さえあるのです。大変むずかしいことを言いましたが、とにかく、人は言葉の研究の責任から自由ではありません。せまい意味での言葉(たとえば日本語とか英語)はもちろんのこと、広い意味での言葉(たとえば人間の姿勢、在り方、行為など)の研究に励まなければなりません。
私たちは人間でありますし、人間の力には限りがありますから、「言は神なりき」というような具合にはいきません。いくら努力しても、人と言葉の間のずれは残るでしょう。
ある詩人が詠ったように、言葉は矢弦をはなれた矢のように口から飛びだしていって、誰かに突き刺さります。そして、人を失望させたり、力づけたり、生かしたり、殺したりします。
私たちは、まず自分の姿勢を正し、「在り方」を確立し、正確な表現の手段すなわち「言葉」を身につけて、「言葉は人なりき」という「人と言葉との一致」という、大理想実現のために努力しようではありませんか。