啓示の道

山本三和人

信仰  私たちのキリストの主たることを告白する力は聖霊である。私たちに信仰を与えるのは聖霊である。信仰とは決して人間の心の作用でも、強い思いでもない。人間の意志の働きではない。聖書によれば、それはあくまでも聖霊の業である。自分の意志の力で神を信じるというのではなく、聖霊に導かれて神を信じせしめられるようになるのが信仰である。(山本三和人)

イエスは主である

 新約聖書の中に『ヤコブの手紙』というのがある。このヤコブが誰であるかは分かっていない。従ってこの手紙は誰が書いたのか不明であるが、この著者は自分を紹介するに当たって「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」(ヤコブ1:1)と述べている。

 このヤコブの手紙をパウロの手紙と比較して、パウロの手紙はいかにも福音主義的であるのに対し、ヤコブの手紙は律法主義的であると思ったり主張したりする人々がいる。また、パウロの手紙がイエス・キリストにおける神の特殊啓示を重んじる立場で記されているのに対し、ヤコブの手紙は人間の行いを重視する自然神学の立場で書かれていると思う人もいるし、主張する人々もいる。

 宗教改革者の中にさえも、パウロのガラテヤ書を重んじる一方で、ヤコブの手紙を「藁の書」などと言って、あまりこれを重んじていないのではないかという印象を与えるような人もいた。しかし、聖書の戒めをキリストの証として読む場合においては、その聖書の言葉を通して私たちの真実の姿を見せる鏡に例えるということで、私たちをイエス・キリストのもとに導く証の御言葉となる。

 そういう点においてはヤコブの手紙とパウロ書簡の間に著しい違いはあに。また、自分を主イエスの僕として位置づけている点においてもヤコブの手紙とローマ書の著者であるパウロとの間に著しい違いはない。すなわち、ヤコブの手紙の著者は「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」と述べているが、パウロは「キリストイエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」(ロマ1:1)と少し違うだけである。
 また、イエスを主と告白し、自分を主イエスの僕の位置に位置付けていると言う点では、両者の間には違いはない。
「イエスは主である」という告白は、新約聖書の中のいちばん古い形式の信仰告白であると述べたのはザッセという神学者である。そして、そのことによってキリスト教がユダヤ教ともギリシャの宗教とも異なることを明らかにしている。

 原始教団の礼拝と宣教において、キリスト教の信仰告白を最も端的にあらわす称号は「主(キュリオス)」である。
また、パウロがイエスの人格をあらわすために、中心的に用いたのがキリストよりも「主」であるということができる。神学者のなかには「ホ・キュリオス」という語がギリシャ語であるということ、またその語が共観福音書のマタイ、マルコ両福音書には使われていないで、ギリシャ世界に向かって書かれたと思われるルカによる福音書にだけ12回も使われているということなどで、この信仰告白は、福音のギリシャ化を意味すると主張する学者もいる。
 例えば新約学者のブッセは、アラム語が使われていた時代にはマルとかマランという語はラビという語と全く同じ意味に使われ、ごく一般的な尊敬を意味する言葉に過ぎなかったという。イエスをホ・キュリオスと呼ぶようになったのは明らかに聖書のギリシャ語訳セブテュアギンタ(70人訳聖書)の影響によるもので、本来は一人の人間であったはずのイエスをギリシャ化する過程のなかで、神に祭り上げてしまったというのがブッセの主張である。
 これに対して神学者ザッセは、パウロがユダヤ教徒の論敵に対して示したアラム語の祈りの言葉『マラナ・タ」(主よ来てください)(コリント1 16:22)は、新約聖書の中の最古の祈祷形式であり、これはブッセの主張を覆してあまりある言葉であると述べている。ザッセの主張によると、聖書がギリシャ語に翻訳されていなかったj時代、すでにイエスは主の名において信じられ告白されていたと言う。

 キュリオス(主)という言葉は、ヘレニズムの宗教においては神々の呼称であり、皇帝に対する尊称であり、また原始教団の人々が教会の長老たちを呼ぶとき、あるいは奴隷が自分の主人を呼ぶとき、妻が夫を呼ぶとき、そういうときには単なる尊敬以上の意味で使われていたことは否定できない。
 初代教会が最初の合同の祈りにおいて「すべての人の心をご存知である主よ」(使徒1:24)と呼びかけたり、あるいは新約最古の祈祷形式「マラナ・タ(主よ、来てください)」という祈りの「主」とは、単に尊敬を意味する言葉ではなく、信仰を告白するものであった。イエスを神と信じる信仰告白以外の何者でもなかったのである。

 パウロが「聖書によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(コリント1 12:3)と述べているのは、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエスは主である』と公に
宣べて、父である神をたたえる」(フィリピ2:10−11)ためである。

 それだけではない。イエスはあらゆる時代の人々の主でもある。教会と世界の主というだけでなく、あらゆる時代に生きた人々(その人が認めようが認めまいが)の主である。そのような意味において「主」と告白したのである。
神の主権の一元性とあらゆる時代の人々との同時代性を告白することが、聖霊の導きなくてできることではないというのがパウロの信仰である。

 イエスが主であるという告白は、ただ一人の主であるという告白である。そして、あらゆる時代の人々の主であるということである。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』(ヨハネ8:58)。このイエスご自身の言葉からも明らかなように、昔いまし、今いまし、将来もいまし給う方こそ私たちの主であるというのが、主と告白することの意味である。
 さらに、イエスは私たちの主であるという告白は、選びの主体が主イエスであるということを同時に告白することである。「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)とイエスは言われる。このことについての理解がないと、私たちは気づかないうちに自分を人神の座に押し上げてしまうことになる。それは、私たち人間が人や物を選ぶ場合を考えてみれば分かる。

 その選び方は、先ず自分の好みが先行し、それから価値判断を加えて決定する。歴史の中の人物の中からある特定の人物を選び、その人物を愛と尊敬の、場合によっては信仰の対象にするためには、それぞれの人物が残した言葉や行為を自分の好みによったり、あるいは価値判断を加えたりして、尊敬できる人物を選ぶのではないだろうか。

 このようにすることも一種の主礼拝の形式であると考え、イエスを主と告白する信仰の原型であると言う人もある。
 しかしこのような思いや説明には主礼拝とは似ても似つかない人神礼拝に走る危険性が含まれている。歴史の中の多くの人物の中から一人の人物を選ぶ、そしてその人物を重んじたり、尊敬したりすると言う行為は、いつの間にか自分の選びの確かさを誇る気持ちが生まれ、そしてその確かさについて自慢したくなる気持ちに導かれるのである。
「もし彼(アブラハム)が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』とあります」(ロマ4:2−3)とパウロは言う。アブラハムは信仰によって義とされたのであって、決して良き行いによって義とされたのではない。
 私たちが、もし歴史の中の無数の人物の中の一人としてイエス・キリストを選び、それに私たちの価値判断を加えて信じるときめたとしたなら、それは一つの行為であり決断であり、それに対する誇りが人神思想の大木を成長させるのに時間はかからない。律法学者やファリサイ人たちが自ら清め分かたれた者と思うことで世俗的に明け暮れていたのを見れば、そのことはよく分かる。
 選びの主体はあくまでも神であり、イエス・キリストであって私たちではないということである。この認識を誤ると、神の法廷の被告席にある裁かれる者から裁き人になって、世の人々は汚れているとの批判と悪口に明け暮れるようなことになってしまうのである。(1994.1.2)

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