予定説ー二重決定論的信仰の過ち
山本三和人
「二重決定論」とは、救いに選ばれる者と、滅びに選ばれる者とが神によって予め決定されている、という主張を言います。宗教改革者たちが唱えた「予定説」または「予定論」がその理解を誤ると、教会の人々に宗教的な偏見や差別の思想を抱かせ、世の人々との共存を妨げることになる場合があります。私たちが同じ過ちを犯すことがありませんように、教会の犯した過ちを振り返ってみたいと思います。
予定説を唱えたのは宗教改革者たちが初めてではなく、彼らより一千年以上も前に『告白論』で有名なアウレリウス・アウグスティヌスが、「神の選びが神の予定に基ずく行為である」と言いました。これは彼の思い付ではなく、聖書的な根拠に基づくものでした。エレミヤが聞いた主の言葉とか、パウロの言葉(ローマ人への手紙9章11−13節)あんどが、アウグスティヌスを「神の選びが神の予定行為」であるという考えにいたらしめたのです。
パウロの「まだ子どもらが生まれもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、(人間の)わざによらず、召した方によって行われるために」(ロマ19:11)という言葉から明らかなように、神の選びは神の自発的な、そして無動機的な愛に基づいて行われるものであって、決して人間の「わざ」に条件づけられたり、動機づけられたりするものではありません。宗教改革者たちもまた、聖書の伝える神の選びをそのように理解した上で、神の予定行為と主張したことと思います。
しかし、その予定説はその継承者たちを経て「二重決定論」に堕してしまいました。神が誰を救いに選ぶかを既に決定しておられるなら、私たち人間が神のご決定を変えたり覆したりすることはできません。また、神がご自分の自由意志で誰を救い、誰を滅ぼすかをお決めになっておられるなら、私たち人間の中の誰が救われて
誰が滅ぼされるかは神だけが知っておられることであって、私たち人間にはわかりません。したがって特定の個人に哀れみをかけたり、自分の救いについて神に感謝したりすることもできません。
それだのに、二重決定論的な予定説を唱える人々は、自分たちは救いに選ばれた者であると主張する一方、異教徒や神を信じない世の人々は、滅びに予定されていると信じて疑いません。ですから二重決定論的な信仰をもって教会生活を営む人々は、「聖職的な誇り」と「自惚れ」に陥り、「世俗に対する軽蔑と侮蔑」は手の施しようのないものになりました。
この人々の考えによれば、教会と世との共存は、教会の世俗に対する妥協であり敗北でしかありません。恐らくこうした教会の奢りと自惚れの裏には、自分たちが神の戒めを守り、神のみ旨にかなった宗教生活を営んでいるから、神の救いに選ばれたいという思いが潜んでいたことでしょう。また、世俗の人々は神の戒めに背き、不浄な世俗な暮らしをしているから滅びに選ばれたのだという思いが潜んでいたことでしょう。もしそうでありますなら、教会の思い上がりと世俗軽蔑病は、癒しようもないところにきています。
聖書がエレミヤの選びについて述べていることや、イサクの妻リベカにつげられた言葉としてパウロが延べている言葉は、このような形の「二重決定論」的な予定論ではありません。「二重決定論は聖書の選びの思想とは無縁である」(キリスト教大事典) と言いますように、その言葉は神の選びが人間の倫理的、道徳的価値判断のようなものに基づいて定められたものでなく、何者にも拘束されることのない、神ご自身の自由な決断に基づいて定められたものであることを証する言葉であって、神がある者を救い、ある者を滅びに予め決めておられることを証する言葉ではありません。
私は長く牧師をやっていて不思議に思うことがあります。それは、多くのプロテスタントたちがこのような言葉に接しますと、多くの人が滅びに選ばれていて、小数の人だけが救いに選ばれているという二重決定論を、聖書の伝える福音の真理に基づく論説であると思っておられるのではないか、と思われることです。
しかし、聖書の中のこのような言葉で二重決定論を基礎づけようとする試みは、何か人間の現実についての重要な見落としがあるように思えてなりません。
たとえば、人間を羊の群れと山羊の群れにたとえたり、狭い門から入って細い道を行く人と、大きい門から入って広い門を行く人にたとえたりしているのをみると、教会の人たちは何時でも羊の群れの中に身を置いて、山羊の群れを裁きます。また、狭い門から入って細い道を行く人々の群れの中に立って、大きい門から入って広い道を行く人を裁きます。このことが偏見と差別のもとになるのです。
何故、自分を山羊の群れの中に置かないのでしょう。何故、自分を大きな門から入って広い道を歩く人々の中に置かないのでしょう。私たちは日曜日には教会へ集まって礼拝の時を分かち合いますが、家に帰ったり、職場に行ったりしますと、他の人々と同じ生き方をしています。私たちは他の人々から村八分にされたくありません。皆と同じ電車に乗り、皆と同じものを食べて生きています。
どうして狭い険しい道を行く人々の中に身を置いて世を裁くのでしょう。
パウロが次のように述べていることに気づかないのでしょうか。
すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。
ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。
次のように書いてある。
「義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、
ひとりもいない。
彼らののどは開いた墓であり、彼らは、その舌で人を裁き、彼らのくちびるには、
まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」
(ローマ人への手紙第3章9−18節)
これは神の目からみた人間の現実の姿です。人間の中には悪人もいるが善人もいるというのは人間の判断です。神の絶対的な要請を一つ残らず完全な形で満たしている人など、一人もいません。
神を信じ、神の戒めに日夜接していながら、どうして人間のこの罪の現実がみえないのでしょう。もし私たちが、この悲しい人間の現実についての認識を与えられていますなら、狭い門から入って、細い道を行く人の群れの中に身を置いたりして、山羊の群れを裁いたり大きな門から入って細い道を歩く人々を裁いたりすることが、信者たちのなすべきことでないことがわかります。(『共存の道』31)