愛の戒め

山本三和人

 「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空は手のわざを示す」(詩篇19編)
 詩篇の記者はこのように歌っていますが、大自然が神の栄光をあらわしみ手のわざを示すのは、それにキリストの光を当てて見直す時です。キリストにおける神の啓示の光を当てて見直し、読み直すことがない限り、自然の素晴らしさはわかっても、それが神のみ言葉やみ業の素晴らしさであるかどうかはわかりません。このことは律法についても言えます。律法そのものが姿を現すのは、律法にキリストの光が当てられた時だけです。預言者の言葉も律法も、来るべき主キリストを指差しキリストに導くための予備啓示のようなものです。従ってそれはキリストの光のもとでしか真実の姿を現しません。パウロは「律法の全体は『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』というこの一句につきる」(ガラテヤ5:14)と述べます。愛の戒めが律法の中心だと言うのです。ですから愛の戒めを理解し、愛の戒めに従って生きることができれば、律法は確立されます。では、私たち人間に愛の戒めに従った生き方をすることができるでしょうか。それはできません。それができるくらいなら、人間は罪人ではありません。罪のない人間に、贖いの必要がどこにありましょう。贖いを必要としない人間に、キリストは要りません。要らないから十字架にかけて殺したのです。

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