永遠の今の生活
山本三和人(1991.4.4発行 LOGOS)
一人前の大人が、苛烈な、また非情写実生活を営んでいながら、ひとたび歌劇場の中に入ると別人のようになってしまう。あたかもクロークに帽子と外套をあずけるとともに、いつもの理性、日常の自己をすっかり脱ぎ捨ててしまって、王様みたいにぜいたくな気持ちになって座席につく・・・そしてはばかるところなく感情の奴隷になってしまう。(ベルトレド・ブレヒト)
これは『古い帽子』や『三文オペラ』で有名なベルトルド・ブレヒトが、芸術と世俗の分離に基づく創作行為を批判して述べた言葉です。このようなことは、キリスト教が政治や文化にまで浸透していない、わたし達の国の教会の中でも起こる現象です。ふだんは一般の人々と選ぶところのない非キリスト教的な生活をしていながら、日曜日が来て礼拝堂に入ると途端に信心深い信者に早がわりする。しかし礼拝が終わって教会を出ると、一般社会の人々と少しも変わらぬ生活に戻る。すなわち一週168時間のうちわずか1時間か2時間だけ聖域にいて、あとは俗域で過ごしているのに、世俗を危険視したり非難したり、裁いたりする人々も現れる。
わたしは人間を善人と悪人に分け、善人とは交わるけれど悪人とは交わらないようにつとめるのが正しい信仰生活であるとは思っていません。また場所を聖域と俗域とに分けて、聖域には足を運ぶけれど、俗域にはなるべく近づかないようにするのが信者のつとめであるとも思っていません。時間を神聖な時間と俗悪な時間に分け、神聖な時間には身を置くようにつとめるけれど、俗悪な時間帯からは出来るだけ遠ざかるのが信者のつとめであるとも思っていません。
ある人を特別視したり、ある空間や時間を神聖視したりしますと、わたし達の信仰生活がその人の前にいる時だけのものになり、その時間とその場所にいる時だけのものになる恐れがあります。
イエスがユダヤからガリラヤに帰る途中、サマリヤの井戸の所で休まれた時、一人のサマリヤの女性の問いに「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る・・・神は霊であるから、礼拝する者も霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:19-24)とお答えになりました。
神を礼拝するのに、ここでなければならないとか、この時間でなければならないということはありません。ふだんは世の人々と変わりない生き方をしているから、せめて聖日くらいは教会で過したいという考えは、教会の集まりを賑やかにしたり、教会の経済力を培ったりするには役立ちますが、信仰の確立にはあまり役立たないばかりか、偏見や差別を正当化することにもなりかねません。また、わたし達を迫害する敵をさえ神さまと思い込んでしまいかねません。
「この小さい者の一人に」奉仕するのが神奉仕であり、神礼拝なのです。讃美は神に捧げる信者の歌であると言って独占することこそ、もってのほかの背信行為です。