福音の実

山本三和人

 バプテスマのヨハネは、洗礼を受けようとして近づいてきたパリサイ人やサドカイ人に、「悔い改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にアブラハムがあるなどと思ってもみるな。お前たちに言っておく。神はこれらの石ころからでもアブラハムの子を起こすことができるのだ」(ルカ3:7-8)と申しました。パリサイ人やサドカイ人も、アブラハムの子らとして誇り高い人々でありました。神を独占し、信仰と律法のエキスパートとしての自信をしっかりと身につけた人々でありました。しかしヨハネは路傍の石ころを指し、神はこれらの石ころからでもアブラハムの子らを起こし給うと述べて、彼らの誇りや自信の無意味さを暴いたのです。大切なことは、自信や誇りをもつことではなく、「悔い改めにふさわしい実を結び」ということだと教えました。パウロも言いました。「律法(神の言)を聞く者が神の前に義なる者ではなく、律法を行う者が義とされる」(ロマ2:13)と。律法を持つか持たないかが問題ではなく、律法を持っていても行わなければ何にもならない。律法を持っていなくても、律法で命じてあるようなことを実際の生活の中で行えば、それによって義とされるのだと述べています。このことは、信、不信にも当てはまります。神を信じるか信じないかということよりも、あるいは福音を持つか持たないかということよりも、福音にふさわしい実を結ぶか否かということが大切であります。

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