心の安らぎ
信仰は私たちのもっている神ごころとか、宗教心とか、宗教性などの働きではありません。
信仰は聖霊のみ業です。信仰認識は聖霊認識です。(『続・文学的神奉仕』)
山本三和人(LOGOSNo.4)
それはもう何十年も前、私が洗礼を受けて間もない頃のことです。
ある有名な盲人伝道者が特別伝道集会の講壇にたち「お寺の鐘はGONEと鳴り、教会の鐘はCOME INと鳴る」と話しているのを聞いて感心したり、反発を覚えたりしたことがあります。つまり、その伝道者によれば、お寺の鐘のGONEという音色は、何もかもがいってしまったことを伝える音であり、そこには、はかなさはあっても安らぎがない、というのです。
私は「さすがにうまいことをいう」と感心すると同時に「でもお寺の鐘のGONEは聞きようによっては、人間のすべての不浄や悲しみが、はるか彼方に行ってしまったことを伝える音にも聞こえるし、もしその音をGO ONと聞き取ることができれば、それは私たちにたゆみない前進を促す音にも聞こえるのではないだろうか」と、ちょっと反発めいたことも感じました。
すでに、よく知られているように、ご自身が伝道を始められた頃のイエスは、出会う人々に向かって必ず“COME”と語りかけておりましたが、復活されてからは逆に“GO”といわれるようになりました。
私たちはイエスのやさしい“COME”と神人キリストの厳しい“GO”の間にたたされていることがわかります。
そして私たちは、さまざまな思い、わずらいを抱いて毎日の生活を営むことで疲れきっていますから、“GO”という厳しいことばよりも”COME"というやさしいことばのほうに強くひきつけられるのです。