序(ロゴス往来 『聖書の世界』1996年発行)
山本三和人
私たちが用いている聖書は『旧約聖書』と『新約聖書』に分かれていますが、イエスがおいでになったころには新約聖書はありませんでした。新約聖書は紀元50年から150年くらいの間に書かれたものと思われますが、旧約聖書とともに正典(教会と信仰生活の規範)に定められたのは紀元397年のカルタゴ会議においてでありました。キリスト教会は、どのような基準で沢山の文書のなかから66の異なる文書を選んで正典に定めたのでしょうか。それは、そのいずれもがキリストを証する文書であるという、ただそれだけの理由によるものです。
どの文書も、読者をキリストに導き、キリストに出会わせ、キリストを教会の主・世界の主と告白して、キリストとともにおるためのキリストの証しであるということで、正典として公認されたのが聖書です。どんなに聖書に親しんでも、どんなに聖書の戒めを重んじても、私たちを主イエス・キリストに導かないばかりか、私たちにキリストを不要と思わせるような聖書の読み方は、決して正しい読み方ではありません。パリサイ人たちのように律法の行いによって救われたり清められたりすると思い、 律法に親しみ、律法を重んじることでも、学ぶことでもありません。神の律法の戒めを行うことの出来る人には贖罪者キリストは要らないのです。
『ヨハネによる福音書』第5章にイエスが38年もの間、病気に悩んでいた人を「起きてあなたの床を取り上げ、そして歩きなさい」と、癒してあげられた話が記されています。その日が安息日だったため、ユダヤ教徒たちから非難の声が上がりますが、イエスは「この聖書(旧約聖書)は、わたしについて証しするものである」とお告げになります。旧約聖書もキリストを指し示すキリストの証しであるならば、それはキリストの光を当てて読みときにおいて、はじめてその意味と役割を正しく理解することが出来るのです。
神がおつかわしになったキリストを信じない人は、どんなに律法を重んじても、どんなに律法に忠実な宗教生活を営んでも、神の言としての律法そのものは、その人のうちには留まりません。イエスが指摘されたパリサイ人や律法主義者の誤りは、イエスを信じないで、律法に忠実な宗教生活が送れると思ったことです。律法もまたキリストの証しであることを忘れてはなりません。
聖書は『預言書』も『律法』も、神の啓示、すなわちキリストの光のもとにおいてのみ正しく理解されます。 正しく理解しないで、キリストが教会と世界の主であることを告白する信仰を与えられることはけっしてありません。パリサイや律法学者たちがキリストを裁きにかけ、極刑に処したのを見れば、そのことがよくわかります。
正典としての聖書の読み方について、私たちの陥りやすい過ちについて述べておきます。キリスト教は、ユダヤ教の経典としての聖書に旧約という言葉をつけて、新約聖書と共に正典として公認しています。そのためかどうか、キリスト教の福音の理解は、ユダヤ教の経典としての聖書の理解と認識によって助けられると考えている人がいます。また聖書を先に経典として用いたのはユダヤ教であるから、ユダヤ教の経典としての聖書の理解と知識が、新約聖書の理解と認識を深めると思っている人もいます。またイエスにはイスラエル人の血が流れていたということで、キリスト教がユダヤ教を母体として生まれた宗教であり、従ってユダヤ教についての知識がキリスト教の理解の助けになると思っている人もいるようです。
しかし、キリスト教は、主イエス・キリストを教会と世界の主と告白する人々の教会組織です。預言者たちは期待のかたちでイエスの証しをしましたが、使徒たちは聖霊の導きによる想起のかたちで、イエスが教会と世界の主であることを証しました。それががイエス・キリストについての証であるなら、キリストの光の下に聞き、かつ読むべきです。