人格的な交わり
山本三和人
非人間的な交わりの中では、力の関係によって自由が犯され、平等の人間関係が歪められます。それが個人と個人の関係から集団と集団の関係、国と国との関係になりますと、この傾向はますます大きくなります。力は正義であり、力なき者は力ある者の自由を増し、繁栄をもたらす手段になってしまいます。これでは貧しい人や弱い人はいつまでたっても救われません。自由になることも、幸せになることもできません。今日でも、貧しく弱い人々に対する偏見や差別は姿を消しておりません。イエスが十字架上の死を遂げられてから二千年近くも経っているのに、偏り見ることのない神のみこころは、まだ実現されておりません。偏り見ることのない神を信じる人々の間にさえも、偏見や差別が残っているということです。教会の中でも、まだ自由と平等の人格関係が打ち立てられてはいないということです。「二人の人間が共に語るとき、いつでも第三番目の人、永遠の傾聴者なる神が耳を傾けるのだ。しかし、この永遠の傾聴者がいない場合には、あらゆる話は一対話でさえも独白めいてくる」(ピカードの言葉)。対話が力の関係に左右されないためには、強い人にも弱い人にも偏らない、公平な聞き手が必要です。すべての人の言葉を分け隔てなく聞いてくださる公平な聞き手が、共にい給うことを信じる人の間でしか、「我と汝」の人格的な交わりは始まらないし、公平な対話は始まりません。