過剰な信仰意識
山本三和人
私たちは、私たちを包む環境世界に向かって自分を開かなければなりません。ところが過剰な信仰意識や召命意識や選民意識が、得てして信仰者に閉鎖的な姿勢をとらせ、知らず知らずのうちに世間から孤立させることがあります。「信仰を守るために」という信仰意識は、信じなければならないもの(神)も信じていないのです。「私は神を信じて断じて疑わない」というような人は、自分の体のおそらく胸(心)か腹(意志)か、すなわち絶対依存の感情が道徳意志の働きでそのように信じているのです。K・バルトは「自分は神を信じていないと思っている人よりも、自分は絶対に神を信じていると思い込んでいる人のほうが、より大きな過ちを犯す」と言っています。前者ははじめから神を信じていませんから、神でない神を拝むようになる機会が少ないのですが、後者には神でない神をつくって拝む危険性が沢山あります。自分の宗教心を絶対化する人が、自分を人神に祭り上げるのに時間はかかりません。それは、神への信仰や神の選びを人間的に条件づけるからです。自分には神の召命や選びに値する値打ちがあるから、神に召され神に選ばれたと思いがちだからです。その思いは独りよがりのうぬぼれと特権意識に導きます。ユダヤ教徒やパリサイ主義者たちがそうでした。神の選びが天職意識と平等意識をともなう人類平等の土台である、という認識に立つことが必要です。