神なき世界の人間

山本三和人

 自分が人間であるということは神でないということです。神でないということは、思いにおいても、言葉においても、また行いにおいても過失を犯すということです。しかし、このことに気づくと、人は自分の犯した過失を是認してしまって、過失に対する責任を感じなくなります。神なき世界では、人間の犯す過失を人間悪として掘り下げて問うことも描くこともいたしません。さらに、神なき世界の人間の過失は当然のこととして是認されるだけでなく、その過失が美化されることさえあります。「罪を犯して悔ゆる魂は、罪を犯さないで悔ゆることを知らない魂より美しい」(M.シェーラー)と言うように、過失を犯してもそれに気づいて後悔する人は後悔することを知らない人よりも清い美しい魂の持ち主である、過ちに気づくのは自分に良心が健在するからであると思うことで、過失に対する責任を深く感じなくなってしまいます。それだけではありません。過失に意味づけさえもしてしまいます。戦争という人間悪としての破壊や人殺しが、称えられたり叙勲の対象になったりするのはその顕著な例です。したがって、私たちが自分の真実の姿を見ようとする時に用いる手段の一つとしての反省や瞑想では、自分の人間としての存在の本質を見極めることはできるものではありません。やはり、神の前に立ってみ言の光を受けなければ、人間の存在の本質は見えません。

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