神の言葉

山本三和人

 「み言が開かれると光が射し出で無知な者にも理解を与えます」(詩篇119:130)
私たちがどんなに頭が良くどれほど真剣に探し求めても、私たち人間の目に神の姿は見えません。私たちの耳に神の御声は聞こえません。自分の力で神を探したり、その存在を証明したりしようとすると、その憶測と期待による探索が、私たちを神でない神に導くことにより、ますます私たちを神から遠ざけ、「主であるキリストに仕えないで自分の腹に仕え」(ローマ16:18)るようになります。み言に親しみ、み言に学んで、愚かなものが悟ったり、賢くなって、神のことが何でも解るようになるということはありません。み言の意味が自分の知恵の働きで理解できれば、神のことも人間のこともすべて明らかになるといっても、自分の知恵の働きではみ言は解りません。それは「猫の首に鈴をつけておけばその音を聞いて逃げることができる」という鼠の思いつきと同じです。ですから「み言が開かれる」ということは、私たちが自分の力でみ言葉の意味を理解するようになるということではありません。神は私たち人間の肉の目からも心の目からも隠れた存在であり、神の言葉は封印された箱のように何が入っているか、私たち人間には解りません。その封印された箱の蓋が独りで開いて中のものがその姿を現す時にしか、その姿を見たり、その意味を理解したりすることはできません。この詩篇の言葉は神の啓示の予告です。

TOPへ