禁欲生活

山本三和人

 今でも禁酒、禁煙、純潔が信仰であるように思っている人が沢山います。それらの信徒たちの間では、信仰生活は禁欲生活であると思われています。牧師が小説を読んだり、映画を見たりすると俗物視されかねません。酒を飲んだり煙草を吸ったりしようものなら、たちまちにして生臭牧師呼ばわりされてしまいます。はなはだしい場合になると政治や経済に関心をもつことまで、牧師にあるまじきことと非難されます。これでは牧師に人間としての自由はありません。一度しかない人生を、いつも何かに怯えながら生きていくことになります。それだけではありません。ただびくびくしながら生きるだけでしたら、自分で自分の自由を制限するだけのことで、他人に迷惑を及ぼすことになりませんが、信仰生活は禁欲生活であるという考えの最も危険な点は、それが人を偽善に追い込むということです。律法主義は人の自由を奪うだけではなく、必ず人を偽善に追い込みます。キリスト教の信仰をもつということは、確かに罪の意識を鋭敏にします。しかし、それは決して人を脅かし、人の自由を奪い取るものではありません。真の罪意識は、かえって人の心に安らぎを与え、現実の生をより深く享楽することを可能にします。真実の罪意識が人間の自由を拘束したり、人間を偽善に追いやったりしないのは、罪意識も自由もともに同一の根源から与えられるものであるからです。それは神の愛です。

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