教会の独善

山本三和人

 教会はその人がそれを認めようが認めまいが、人間はみな罪人であるといい、それを教会外の人々にも認めさせようと罪の烙印を押し、罪の衣を着せてしまいます。そのことが聖書の教えに背くことだと言っているのではありません。神の絶対的な要請としての律法の戒めに照らして、罪を犯したことのない人などは、どこにもいませんし、その人が認めようが認めまいが、人間はみな罪人であるという聖書の証は真実です。そして、それは人間の常識でもあります。解らないのは、その人が認めると否とにかかわらず、その人に罪の衣を着せておきながら、どうしてもその人にキリストの愛と許しの衣を着せてあげないのだろう、ということです。人間アダムの犯した罪は全人類に影響を与えるけれど、神人キリストの愛と恵みは、これを認め信じる人たちにだけしか、影響を与えることができないというのでしょうか。パウロが「ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、命を得させる義がすべての人に及ぶのである」(ロマ5:18)とローマの教会に書き送ったのも、このことと関係があります。人間は神の救いへの選びから落ちこぼれています。しかし、神は救いから落ちこぼれている人類を愛し、滅びから救いに選び直すために自らを空しうして償いの形をとり、人間の姿にならえたのです。罪は全ての人に普遍化し、愛と義は信者だけに特殊化することは独善です。

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