惨めな人間
山本三和人
キリスト教徒も仏教徒も人間であることに変わりはありません。キリスト者だけが、自己矛盾のない神になったわけではありません。この世にある限り、そして人間である限り、この悲しい現実から解放されることはできません。自分が清め、分かたれ、この世でただ一人の完全な人間であると思うのは、キリスト教徒の思いあがりです。善と悪、生と死、当為存在(あるべき姿)と現実存在(現実の姿)の間にあって、選びの自由と能力とを失っている存在である、という悲しい事実においては、人間はみな同じです。ただ違いは、この悲しい現実に気づいて、パウロとともに「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死の体からわたしを救ってくれるのだろうか」(ローマ7:25)と訴える人のみが、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」(ローマ7:25)という安らぎと、喜びと感謝の思いに導かれます。また、このような人間と人間の世界の現実に気づいた者が、キリストの人格と行為の中にある神の愛と、その愛に基づく救いを見出すことができるのです。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ10:34) 。この言葉にキリストがおいでになったことの真意が示されています。