思うべき限度

山本三和人

 人間の思いには「思うべき限度」というものがあります。その限度というのは、私たちが人間であるということです。何を思うにしても、何を言うにしても、また何をするにしても自分が人間であるということについての自覚に基づいて、思い、語り、行動することが「思うべき限度を越えて思い上がらない」(ロマ12:3)ということです。これはキリスト者が信仰をもつことによって、自分が人間であるという基礎的な現実を見失う危険性について勧めた言葉です。

キリスト教徒にとってこのような勧めが必要なのは、信仰をもつことが悪人が善人になることであったり、不完全である者が完全な者になることであると思っている人が少なくないからです。信仰をもつことは天使になることでも聖人になることでもありません。ましてや神になることでは断じてありません。むしろ自分のことを善人だと思っていた人が、自分を悪人と思うようになることであり、自分を神だと思っていた人が、自分を人間だと思うようになることであり、自分で自分のことができると思っていた人が、神の助けがなければ何もできない人間だと思うようになることです。言い換えれば、キリスト者になるということは、最も人間くさい人間になるということです。人間くさい人間とは、人間の限度をわきまえた人ということです。「信仰の量り」に従い、からし種一粒ほどの信仰もないという自覚をもつためです。

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